川越城

扇谷上杉氏が古河公方(足利氏)に対抗する足利氏の本城として1457(長禄元)年、上杉持朝(うえすぎもちとも)が太田道真、太田道灌父子に命じて築城した平山城。江戸時代には川越藩の藩庁となっています。明治6年の廃城令で建物は破却されましたが本丸御殿のみ現存。日本100名城にも選定されています。

太田道真、太田道灌父子が築城

太田道真、太田道灌父子は川越城のほか、江戸城、岩槻城(現・岩槻城址公園=さいたま市岩槻区)も築いていますが、ともに上杉氏が北の足利氏に睨みを利かせるため。
上杉持朝が初代の川越城主となり、家老の太田道灌が江戸城を居城としました。

川越城は5万坪に、8つの門、8ヶ所の櫓を構えた本格的な城で、本丸、二の丸、三の丸、本丸南西の20mの高台に富士見櫓、さらに三芳野神社を祀る天神郭などが配されていました。

また、城の西に太田道真屋敷が、城の北西に太田道灌屋敷が築かれていました。

その後、小田原を本拠とする北条氏綱とは、関東支配のため4度にわたる川越城争奪戦が展開されています(「河越城の戦い」)。
1524(大永4)年、江戸城を手中にした北条氏綱は、ついに1537(天文6)年、川越城を攻略。
武蔵国支配の拠点の一つとなります。

1546(天文15)年、扇谷上杉氏の上杉朝定は、長年のライバル・古河公方(足利晴氏)、さらには山内上杉氏(上杉憲政)と連合を組み、川越城を包囲しますが、北条氏康による夜襲で連合軍を撃退。これが日本三大夜戦の一つ・河越夜戦です。

徳川家康の関東入封で、徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が川越城に入り、川越藩が立藩。
新河岸川の舟運で江戸と結ばれ、川越城を中心に城下町が形成され、小江戸と称されるほどに繁栄しました。

1653(承応2)年、知恵伊豆といわれた松平信綱が近世的な城郭として拡張整備し、9万8000坪という巨大な城郭が誕生しました。
天守は富士見櫓を代用天守として活用しています。

本丸御殿の大広間と玄関が現存

田曲輪門跡(富士見櫓跡入口)

幕末の1848(嘉永元)年、松平斉典が本丸御殿を造営。これが現存する本丸御殿です。

明治元年、最後の藩主である松平康英が明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋め、大半の掘割などは現存していません。
現在、城郭跡は市街化され、往時の雰囲気は残されていません。
富士見櫓のあった三の丸跡には埼玉県立川越高等学校が建っています。
二の丸跡には川越市立博物館・川越市立美術館があります。

現存しているのは本丸御殿の一部(大広間と玄関)ですが、本丸御殿の大広間が残されるのは、川越城と高知城(関連記事参照)だけです。

関東七名城のひとつ。

川越城
名称 川越城/かわごえじょう
所在地 埼玉県川越市郭町2-13-1
関連HP 川越市公式ホームページ
電車・バスで 東武東上線、JR川越線川越駅、または西武新宿線本川越駅から東武バスウエスト(蔵のまち経由)で札の辻下車、徒歩10分
ドライブで 関越自動車道川越ICから約5km
駐車場 50台/無料
問い合わせ 川越城 TEL:049-224-6015
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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