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岩槻・時の鐘

岩槻・時の鐘

埼玉県さいたま市岩槻区、岩槻城址公園の西側、渋江交差点近くにあるのが岩槻・時の鐘。寛文11年(1671年)が、岩槻藩主・阿部正春(あべまさはる)が渋江口に設置した時鐘で、享保5年(1720年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、6:00、正午、18:00の1日3回、時を告げています。

今も1日3回時を告げる、関東最古の時の鐘

藩政時代の渋江口は、岩槻城の中心部の南西に広がる武家屋敷の北端、庶民の居住区である町家との境に位置し、武家屋敷と町家の両方に時を知らせるのに最適な場所だったのです。
江戸時代には鐘搗役(かねつきやく)4名が交代で鐘を撞いていたのだと推測されています。

鐘楼自体は、嘉永6年(1853年)銘の棟札が残っているので、幕末に大規模な修理が行なわれたことがわかっています(その後、大正時代と昭和32年、平成4年度に大規模な修理を実施)。

埼玉県で「時の鐘」と言えば蔵の町・川越の時の鐘が有名ですが、現在も時を告げる関東の鐘では、この岩槻城下が最古。
天明7年(1787年)に改鋳の上野・寛永寺、明治27年改鋳の川越・時の鐘と続きます。


岩槻の鐘が享保5年(1720年)に改鋳されているのは、火災で亀裂が生じたため。
時の鐘の表面には、116文字の銘文が刻まれています。

武州埼玉郡岩槻城下鳴時鐘者則
寛文十一年辛亥、城主予州刺史
阿部正春、所令冶工渡辺近江掾
正次新鋳也。至今五十年、釁郄稍
多而音響不調也。於是因仍旧制、
使江都良冶小幡内匠勝行改造焉。
冀夫声聞遠大於不朽也。

  享保五歳次庚子八月日
岩槻城主伊豆守大江姓永井氏直信誌

それによると、初代の鐘は、阿部正春が、鋳物職人の渡辺近江掾正次(わたなべおうみのじょうまさつぐ=江戸・浅草の鋳物師)に命じて新鋳し、その後今まで五十年を経る中で、ひびが次第に多く生じてしまい、音響にも不具合が出てきたため、江戸の名工の小幡内匠勝行(おばたたくみかつゆき=増上寺・徳川家霊廟の銅製灯篭を鋳造するなどした江戸時代中期の江戸を代表する鋳物師)に改鋳させたことがわかります。

岩槻城主伊豆守大江姓永井氏直信誌とは、享保5年(1720年)当時の岩槻藩主・永井直陳(ながいなおのぶ)のこと。

岩槻・時の鐘
名称 岩槻・時の鐘/いわつき・ときのひとみ
所在地 埼玉県さいたま市岩槻区本町6-2-229
関連HP さいたま市公式ホームページ
電車・バスで 東武野田線岩槻駅から徒歩10分
ドライブで 東北自動車道岩槻ICから約3.5km
駐車場 岩槻城址公園第1駐車場(78台/無料)、第2駐車場(150台/無料)、第3駐車場(63台/無料)、臨時駐車場(50台/無料)
問い合わせ さいたま市教育委員会文化財保護課 TEL:048-829-1723/FAX:048-829-1989
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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