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日本地質学発祥の地碑

日本地質学発祥の地碑

埼玉県秩父郡長瀞町長瀞、埼玉県立自然の博物館の東側(敷地内)、南桜通り沿いに立つのが、日本地質学発祥の地碑。平成5年、日本地質学会発足100周年、長瀞町町村合併50周年などを記念して建立されたもの。ナウマンは、明治11年、長瀞で日本列島の根幹をなす変成岩帯(三波川変成帯)を確認しています。

地質学者ナウマンが初の巡検で訪れた地

フォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すドイツの地質学者、ハインリヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann)は、明治8年8月17日、明治政府により東京開成学校(後の東京帝国大学、現・東京大学のルーツ)の教師として招聘されて来日(まだ20歳という若さでした)、明治10年には誕生したばかりの東京帝国大学の初代地質学教授に就任しています。
そのナウマンが、地質学教授就任後、初めて巡検に訪れた場所が長瀞で、明治11年のこと。

秩父から長野、山梨、神奈川県へ至る調査で、秩父では贄川宿、三峯神社などに宿泊しています。

当時のヨーロッパでは日本列島は火山島で、新生代になって形成されたというのが定説だったのですが、実際にナウマンが日本全国(遠くは北海道までも)を訪ね歩くと、古い時代の花崗岩が至るところに露呈し、さらに古生層も分布していることを発見します。

最初の巡検の地・長瀞でナウマンは、日本列島の根幹をなす変成岩帯(三波川変成帯)を確認していることから、長瀞は、日本地質学発祥の地ということに。
長瀞の岩畳は、「地球の窓」とも呼ばれ、東京大学教授の神保小虎は、自身の論文『秩父にある美しき皺と断層』(明治34年)の冒頭で、「我が国の地質学者が一生に必ず一度は行きて見るべき」と記したように、明治時代〜大正時代には全国から地質学に興味ある研究者が多数訪れています。

明治44年、上武鉄道(現・秩父鉄道)の熊谷駅〜皆野駅が開通、さらに大正3年に大宮駅(現・秩父駅)まで延伸したこともあって、大正5年には宮沢賢治も盛岡高等学校農林学校の授業の一環で、秩父を訪れています。
大正15年10月30日〜11月11日に東京帝国大学や帝国ホテルで開催された「第3回汎太平洋学術会議」(学術研究会議主催)でも秩父巡検が行なわれるなど、日本地質学発祥の地という歴史を背景に、多くの研究者の目が秩父に集まっていました。

日本地質学発祥の地碑近くの埼玉県立自然の博物館駐車場の横には、大正5年に虎岩を訪れた宮沢賢治の「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの 片岩のいろ」という虎岩の様子を博多帯に例えた歌碑が立っています。

日本地質学発祥の地碑
名称 日本地質学発祥の地碑/にほんちしつがくはっしょうのちひ
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町長瀞
電車・バスで 秩父鉄道上長瀞駅から徒歩5分、または長瀞駅から徒歩15分
ドライブで 関越自動車道花園ICから約17km
駐車場 埼玉県立自然の博物館駐車場(32台/無料)
問い合わせ 埼玉県立自然の博物館
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

埼玉県立自然の博物館

埼玉県秩父郡長瀞町、日本の地質学発祥の地といわれる長瀞(ながとろ)、荒川の岩畳近くに建つのが、埼玉県立自然の博物館。埼玉の地質、生物など豊富な資料で展示解説する自然科学系のミュージアム。建物の東側、南桜通り沿いには、「日本地質学発祥の地」の

長瀞

ナウマンゾウで知られるナウマン博士が明治11年、東京帝大地質学教室の初代教授となって初めて巡検に訪れた場所が長瀞。1億4000万年前の海底にあった土が結晶片岩に変化し、巨大な岩畳や甌穴(ポットホール)を生みだしました。岩畳を流れる荒川では川

 

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