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安土セミナリヨ跡

安土セミナリヨ跡

イエズス会巡察師ヴァリニャーノ神父は、天正8年(1580年)、キリシタン大名・有馬正信の許しを得て日野江城下に日本初のセミナリヨ(神学校)を設立。さらに織田信長の許しを得て、安土城下(現・近江八幡市安土町)に教会やセミナリヨのための土地を譲り受け、宣教師オルガンチノがセミナリヨを建てています。

信長から安土城下の埋立地をもらってセミナリヨ(神学校)を建設

イタリア人宣教師ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo)は、元亀元年5月15日(1570年6月18日)、布教のために来日(天草志岐=現・苓北町に上陸)。
京での布教を担当し、京に南蛮寺(なんばんじ=正式名は「被昇天の聖母教会」)を建て、天正8年(1580年)、安土城下にセミナリヨを建設しています。

オルガンティノは、安土城下にセミナリヨをつくることでイエスズ会の信用と名誉を獲得することが目的でした。
天正8年2月16日(1580年3月11日)、織田信長は、そんなオルガンティノに沼を20日間で埋め立て「これ以上良好な場所はないと思われる地所」(ルイス・フロイス『日本史』)を与えています。
安土城と、安土の城下町の間の土地というのが理想の土地というゆえんです。

安土城下に建てたセミナリヨは3階建てで、1階には茶室がついた座敷、2階が神父の居室、3階には教室と生徒の寮があり、三方は石垣で囲まれていました。
授業科目には、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などがあり、後に日本二十六聖人の一人となったパウロ三木などを輩出しています。

信長自身もしばしばここに立ち寄り、オルガンの音に耳を傾けたと伝えられますが、本能寺の変で信長が討たれた後、安土城とともに焼失しています。
セミナリヨはその後、京、高槻、大坂(現・大阪)へと移り、天正15年6月19日(1587年7月24日)、秀吉の禁教令(バテレン追放令)で肥前国(長崎県)日野江城下のセミナリヨに合併。
慶長17年3月21日(1612年4月21日)、徳川幕府の慶長の禁教令、そして慶長19年9月(1614年11月)の修道士、主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放され、セミナリヨも廃校となっています。

安土城外堀沿いの安土セミナリヨ跡堆定地がセミナリヨ史跡公園として整備されています。
公園内には当時の学生の日課を紹介した説明板も配されています。
ただし、あくまで推定地で、遺構などが発掘されているわけではありません。

安土セミナリヨ跡
名称 安土セミナリヨ跡/あづちせみなりよあと
所在地 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦2753
関連HP 近江八幡観光物産協会公式ホームページ
電車・バスで JR琵琶湖線安土駅から徒歩20分
ドライブで 名神高速道路蒲生スマートICから約10km。八日市ICから約13km
駐車場 5台/無料
問い合わせ 安土町観光案内所 TEL:0748-46-4234/FAX:0748-46-4234
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

有馬のセミナリヨ跡

2018年2月11日

 

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