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清凉寺

清涼寺

滋賀県彦根市の東北、佐和山城のあった佐和山の麓にある曹洞宗の寺が清凉寺。彦根城を築いた2代藩主・井伊直孝が彦根藩祖・井伊直政の墓所、そして井伊家の菩提寺として創建。佐和山城は、戦国時代末期、石田三成の居城で、その時代に石田三成や家老・島左近の屋敷のあった場所が現在の境内です。

井伊直弼が参禅修行した彦根の名刹、井伊家菩提寺

永禄4年2月19日(1561年3月4日)、佐和山城主で彦根藩初代の井伊直政(いいなおまさ)は関ヶ原の戦いで鉄砲傷を負い、傷から入った菌が筋肉組織を破壊するガス壊疽を起こし、彦根城築城を控えた42歳で病没。
善利川(現・芹川で現在より北側に流路がありました)の三角州で荼毘に付され、その跡に長松院が創建されていますが、それとは別に、佐和山の麓に井伊家の菩提寺を創建。
以来、井伊家代々の墓所となっています。

本尊は釈迦牟尼仏(伝・運慶作)で、祥寿山清凉寺という山号と寺号は開基である井伊直政の戒名「祥壽院殿清涼泰安大居士」にちなんでいます。

徳川幕府の重臣だった井伊家の権勢で全国から高僧を呼び寄せたため、江戸時代には修行道場としての名声も非常に高く、禅門の雲水は諸国行脚の途上で「尊公は清凉寺の沢庵を食ったか」と挨拶を交わしたほどだったとか。
その伝統で、井伊直弼(いいなおすけ)が参禅修行したという道場も一般に開放され参禅することが可能。
ただし、参禅道場であり観光寺院でないことに留意を。

清凉寺の井伊家墓所内に、文化5年(1808年)に建立された護国殿は、初代・井伊直政と2代・井伊直孝を祭神とする社殿で、江戸時代には、元旦、2月1日(井伊直政命日)、 6月28日(井伊直孝命日)のみ開門され、藩士の参詣が許されました。
明治初年の神仏分離で、清凉寺から離れて佐和山神社が創建されています(佐和山神社は昭和13年、井伊神社に合祀されて廃社、日光東照宮に倣った権現造の社殿は昭和35年、敦賀の天満神社に移築)。

清凉寺
名称 清凉寺/せいりょうじ
所在地 滋賀県彦根市古沢町1100
関連HP 彦根観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR彦根駅から徒歩20分
ドライブで 名神高速道路彦根ICから約4km
駐車場 50台/無料
問い合わせ 清凉寺 TEL:0749-22-2776
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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