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瀬田の唐橋

室町時代に関白・近衛政家が選んだといわれる近江八景の「瀬田の夕照」(せたのせきしょう)として知られ、歌川広重が描いた浮世絵により広く知られるようになったのが瀬田の唐橋。古くは、京の宇治橋、山崎橋と並び「日本三名橋」にも数えられ交通の要衝となっていました。「日本の道100選」に選定。

近江八景の「瀬田の夕照」で知られる橋は、京攻略の重要拠点

「唐橋を制するものは天下を制す」といわれ、京へ通じる軍事、交通の要衝で、幾度となく戦乱の舞台にもなっています。
壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場が瀬田。
1183(寿永元)年の治承・寿永の乱(源平合戦)、1221(承久3)年の承久の乱など幾多の戦乱がこの瀬田の唐橋を舞台にしています。

また、承平年間(931年~938年)、俵藤太(藤原秀郷)が、百足を退治したというのもこの瀬田の唐橋。

1575(天正3)年、織田信長により現在の位置に移されていますが、信長が討たれた本能寺の変では、明智光秀軍の安土城侵略を食い止めるため、信長の命で橋を築いた瀬田城主・山岡景隆は、橋に火をかけて焼き落としています。
『信長公記』には、信長が命じて架橋した橋は、幅7.2m、長さ320mで、欄干があったと記されています。
現在のように、大橋・小橋のかたちになったのはこの信長の架橋から。
武田信玄など、戦国武将が京を目指す際に重要視したのがこの瀬田の唐橋奪取です。

藩政時代には東海道がここを通るため、膳所城を藩庁とする膳所藩(本多家)が管理。

「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」(『笈の小文』/貞亨5年=1688年夏)
「橋桁の忍は月の名残り哉(かな)」(元禄4年=1691年9月13日/十三夜の月見で石山寺に参詣の折、橋桁は瀬田橋と推測)
は、松尾芭蕉の句です。

江戸時代後期の1795(寛永7)年〜1894(明治27)年までの100年間で、18回の架け換えが行なわれているので、交通量も多かったのだと推測できます。

明治時代までは木造橋でしたが、大正13年にコンクリート橋に架け替えられています。
現在の橋は昭和54年に架橋されたもので、滋賀県道2号(大津能登川長浜線)の道路橋(全長260m)。
擬宝珠のみ、以前のものを使い、一部に江戸時代の「文政」の銘が入ったものも残されています。

歌川広重『勢多(瀬田)夕照』
瀬田の唐橋
名称瀬田の唐橋/せたのからはし
所在地滋賀県大津市瀬田1
関連HPびわ湖大津観光協会公式ホームページ
電車・バスで京阪石山坂本線唐橋前駅から徒歩2分
ドライブで名神高速道路瀬田西ICから800m、瀬田東ICから約2.4km
駐車場周辺の公共駐車場を利用
問い合わせびわ湖大津観光協会 TEL:077-528-2772/FAX:077-521-7330
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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