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観音寺城

観音寺城

近江守護で湖東、湖南地方を支配した佐々木六角氏の居城で国の史跡になっているのが近江八幡市安土町にある観音寺城。標高432.7mの繖山(きぬがきやま=観音寺山)全体を城域とし、要所に土塁・石塁をめぐらし、大小多くの郭を配して、中世山城としては日本一の規模を誇った城です。日本100名城、日本五大山城に選定。

繖山山頂からは湖東平野を一望にできる

繖山山上からの眺め
山上にある本丸
山麓から眺めた繖山
山上へと続く石段

南北朝時代の建武2年(1335年)、北朝の六角氏頼が南朝側の北畠顕家軍に備えて観音寺城に籠もったとの記録があり、すでに南北朝時代には築かれていたことがわかります。

京を焼け野原にした応仁の乱では六角高頼が籠城戦を展開し、三度にわたる攻防を繰り広げています。

戦国時代に大改築が施されていますが、天文13年(1544年)に城を訪れた連歌師・谷宗牧は、山上の城の「御二階」の座敷に案内され、六角氏の風雅な暮らしぶりを目にしています。
永禄11年(1568年)、織田信長の上洛に際して、六角義賢・義治父子は敵対し、支城の箕作城と和田山城の落城後に無血開城して甲賀郡に落ち延びています。

六角家老臣の蒲生賢秀は日野城で徹底抗戦の構えをみせますが義兄で織田家家臣・神戸具盛(かんべとももり)の説得で降伏し、鶴千代、つまりは後の蒲生氏郷(がもううじさと)を人質に差し出しています。

その後、織田家の城として機能しますが、織田信長の安土城建設時に廃城となり、安土城の用材として資材が転用されています。

観音寺城の大手道はどこにある!?

昭和44年〜45年の発掘調査により、礎石や石段、井戸などの遺構が出土し、盛大な姿の一部が明らかになりました。
標高432.7mの繖山山頂部には、「二階御殿」があったと伝わる本丸跡、平井氏の居館があったと推測される平井丸、本丸にある御屋形へ通じる城戸口の池田丸、府施氏の居館があった淡路丸の跡が残されています。

本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、山頂から南西に延びる尾根筋上にある本丸、平井丸、池田丸あたりが江戸時代の古絵図に「本城」と記されることから観音寺城の中枢部だと推測され、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいます。

ただし、ここが本城とすると、なぜ郭の分布する西端に位置するのか、さらに山上にある郭の意味はなどという疑問も生じます。

平成20年度~22年度の発掘調査では、これまで大石段が本丸へと至る大手道と考えられてきたのですが、大石段の下方から大石段につながる登城路が発見できなかったため、本丸への登城路が今も不確定となっています。

山頂からは古代に条里制が敷かれた湖東平野を一望にし、旧中山道や朝鮮人街道も見渡せ、この地が中世に交通の要衝だったことがよくわかります。

山上にある西国札所の観音正寺一帯には巨石を組んだ石垣などが現存。

観音寺城
名称 観音寺城/かんのんじじょう
所在地 滋賀県近江八幡市安土町石寺
電車・バスで JR安土駅から徒歩40分
ドライブで 名神高速道路竜王ICから約14km
駐車場 25台/有料
問い合わせ 近江八幡駅北口観光案内所 TEL:0748-33-6061/FAX:0748-32-4125
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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