近江商人発祥の地、滋賀県蒲生郡日野町にあるミュージアムが近江日野商人館。近江商人のうち、ルーツの地、日野を拠点とした商人を日野商人と呼んでいます。近江鉄道日野駅の東、大窪集落にある豪商の家を資料館として再生したものが近江日野商人館で、その暮らしぶり、商法がよくわかります。
豪商の館で、日野商人の暮らしぶりを知る
近江商人とは、江戸時代から明治時代にかけて、近江国(現・滋賀県)に本宅を構え、他国で行商をしたり、出店を設置して幅広く商いをしていた商人のこと。
日野商人は、天文3年(1534年)に蒲生定秀(がもうさだひで)が日野城を築き、城下町を開いたのが始まり。
当初は日野城下に木地師・塗師を住まわせて生産が始まった日野椀(塗り椀)の行商を行なっていましたが、天正10年(1582年)、蒲生氏郷(がもううじさと)が城下で楽市楽座を開いて近江商人の育成を促しています(蒲生氏郷の会津転封の際、塗師を職人を会津に呼んだことで会津塗が隆盛し、日野椀は衰退)。
近江日野商人館の建物は、日野商人・山中兵右衛門(やまなかひょうえもん=現在も静岡県駿東郡清水町に山中兵右衞門商店が老舗の酒問屋として営業)が、昭和7年〜昭和11年に、昭和恐慌(昭和5年〜昭和6年)を乗り切るための「お助け普請」として建てた邸宅。
山中兵右衛門(山中万吉)は、宝永元年(1704年)に行商を開始し、享保3年(1718年)に小田原藩御厨(現・静岡県御殿場)に店を構え、近江商人の商売十訓を守り発展し、大成功を収めた近江商人のひとり。
山中兵右衛門6代目当主が「お助け普請」で日野本宅をわざわざ建て直したのは、地域との共栄を信条とした日野商人の心を今に伝えるもので、「地元の大工や左官、石工、まかないを注文する料理屋にお金が流れるようした工夫」(近江日野商人館の解説)なのだとか。
そんな日野本宅を昭和56年に山中兵右衞門商店が日野町に寄付し、博物館として開館。
「八幡表に日野裏」を具現化した奥座敷
近江日野商人館の建物は典型的な日野商人本宅の特徴を備え、展示品とともに日野商人の歴史や暮らしぶり、精神などを学ぶことができます。
「八幡表に日野裏」の言葉どおりに、関東の地方都市に小規模ながら多数の店を展開した日野商人の屋敷は、表側はその財を誇示することなく厳格さと慎ましい生活態度がよく現れたものになっていて、来客用の奥座敷に資金を投入しているのです(江戸期から京・大坂に大店を営んだ八幡商人は、広告塔の役を果たす屋敷の「表」を重視)。
近江日野商人館でも、奥座敷は、床柱に四方柾目(まさめ)の杉、框床(かまちどこ)の黒柿、違い棚に使われた玉目の欅(けやき)など、希少な銘木をふんだんに用い、贅を尽くしています。
見学にあたっては、行商品や道中着、道中案内帳、家訓などの展示物とともに、「八幡表に日野裏」を体現した奥座敷に注目を。
「日野の千両店」と言われるように大都市よりも地方に多く出店した日野商人。
ほかにも出店地が関東に集中すること、業種に醸造業が多いことなどが特徴となっていて、山中兵右衞門商店も寛政12年(1800年)から御殿場で酒造業を始めています。
近江日野商人館周辺には商人文化の香りを漂わせる町並みが残り散策も可能。
商家では日野椀に代わって「感応丸」を商いの主力商品にした合薬創始者・正野法眼玄三の店「日野まちかど感応館」(旧正野玄三薬店)、富士宮(現・静岡県富士宮市)で酒造業を営んだ日野商人・山中正吉家の本宅「近江日野商人ふるさと館 旧山中正吉邸」が見学できます。
近江日野商人館 | |
名称 | 近江日野商人館/おうみひのしょうにんかん |
所在地 | 滋賀県蒲生郡日野町大窪1011 |
関連HP | 近江日野商人館公式ホームページ |
電車・バスで | 近江鉄道本線日野駅から近江バス10分、大窪下車徒歩5分 |
ドライブで | 名神高速道路蒲生スマートIC、八日市ICから約13km |
駐車場 | 15台/無料 |
問い合わせ | 近江日野商人館 TEL:0748-52-0007/FAX:0748-52-0172 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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