滋賀県野洲市にある平安時代編纂の『延喜式神名帳』にも記載される古社が兵主大社(ひょうずたいしゃ)。正式名称は兵主神社ですが、兵主大社と通称されています。社伝によれば、3世紀後半、近江国滋賀郡穴太(あのう)遷都にともない穴太に社地が設けられましたが、欽明天皇の時代に琵琶湖の対岸である現在地に遷されのだとか。
近江国の古代の歴史を秘める野洲市の古社
天智2年(663年)に朝鮮半島の白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)で大敗北を喫した倭国は、唐・新羅の連合軍に攻撃を受ける可能性が出てきました。
そこで、海岸沿いの都を内陸に遷都しようと天智6年(667年)、天智天皇は近江大津(現・滋賀県大津市)に都を移しています。
ところが、『日本書紀』によれば、大和朝廷成立期の4世紀頃、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の三天皇が高穴穂宮(現在の高穴穂神社と伝えられています/滋賀県大津市穴太)を宮居としたと記されています。
これが穴太遷都で、社伝ではこの時兵主大社の社地が穴太に設けられたということに。
渡来人のものと推測される百穴古墳、大友村主、穴太村主などの古代勢力が支配した穴太。
さらに琵琶湖の対岸の現社地である野洲市も弥生時代より拓けた先進地域で、国の史跡に指定されている甲山・円山古墳などの古墳や、24個の銅鐸(どうたく)が出土した大岩山など、数多くの史跡があります。
そんな古代近江の歴史を秘めた兵主大社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)。
別名八千矛神(やちほこのかみ)で、手名椎神・足名椎神を配祀しています。
兵主を「つわものぬし」とも読むことから中世から近世には武士の信仰があつかった神社。
中世には花山天皇(かざんてんのう)が勅額を寄進、源頼朝が神宝を寄進し、足利尊氏が社殿を造営しています。
近世には徳川将軍家の保護と、朝廷や武士の崇敬を集めました。
現存する朱塗りの楼門は、足利尊氏寄進と伝えられ天文19年(1550年)の墨書が見つかっています。
庭園(兵主大社庭園)は平安時代後期の作で、国の名勝。
大規模な池泉廻遊式庭園で、周辺の苔のじゅうたんには小道が配されています。
森閑とした参道や境内は『剣客商売』など時代劇のロケにもなっています。
毎年5月5日には『兵主祭』を斎行。
兵主大社 | |
名称 | 兵主大社/ひょうずたいしゃ |
所在地 | 滋賀県野洲市五条566 |
関連HP | 野洲市公式ホームページ |
電車・バスで | JR琵琶湖線野洲駅から近江バス吉川行きで13分、兵主大社前下車、徒歩5分 |
ドライブで | 名神高速道路栗東IC、竜王ICから約13km |
駐車場 | 40台/無料 |
問い合わせ | 兵主大社 TEL:077-589-2072/FAX:077-589-2092 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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