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天草四郎

天草四郎

島原半島の原城に立てこもった籠城戦で知られる島原の乱で、そのカリスマ性から一揆軍の総大将になったのがまだ10代だった天草四郎。天草諸島の大矢野島の生まれとされており、故郷の上天草市は、「天草・島原の乱」を解説する天草四郎メモリアルホールがあるほか、原城には墓碑と北村西望作の天草四郎像が立っています。

天草諸島の大矢野島の生まれだというのが定説

月岡芳年『競勢酔虎伝 天草四郎』

天草の大矢野島で生まれた益田好次(ますだよしつぐ)の子で、天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生誕。
生誕年は、元和7年(1621年)とも元和9年(1623年)ともいわれ、さらに生誕地も一揆の直前まで住んでいた宇土郡江部村(現在の宇土市旭町=天草四郎ゆかりの里碑が立っています)だという説もあり定かでありません。
父・益田好次もキリシタンで、キリシタン大名で肥後宇土城主・小西行長(こにしゆきなが)の家臣。

関ヶ原の合戦で西軍に与した小西行長が斬首されると(キリシタンのため自刃できずに斬首となっています)、益田好次は帰農して大矢野島などで暮らしています。

関ヶ原合戦後の天草は、唐津領主・寺沢広高の支配下で、実際の石高の2倍にあたる思い年貢を課せられていました。
さらには大凶作で農民は食べることにも窮する極貧にあえいでいました。

口之津(長崎県南島原市)で天草から嫁いできた妊婦が、年貢が納められなかったことを理由に寒中の川にさらされ代官に殺害されるという残虐な事件を契機に、民衆の怒りは爆発。
キリシタン大名の小西行長の家臣だった元武士たち(多くは帰農していました)も加わって、本格的に武装・組織化された一揆軍が結成されました。

まず島原で火の粉が上がり、続いて一揆軍は天草諸島の北端・大矢野島(現・上天草市)、大島子(天草市)の戦い、町山口川(天草市)の戦いで勝利を収めます。

その後、天草では富岡城、島原では富岡城が一揆軍によって攻撃されるも落城せず、天草の一揆軍は海を渡って島原の一揆軍と合流、慶長20年6月13日(1615年8月7日)の一国一城令で廃城となっていた原城に立てこもります。
総勢3万7000人もの軍勢となった一揆軍のシンボルとなったのが天草四郎時貞です。

弱冠16歳で、島原の乱一揆軍の総大将に

原城跡にある天草四郎時貞の墓碑
北村西望作の天草四郎像

島原の乱では、そのカリスマ性から総大将となり、原城の本丸を守備する父・益田好次とともに奮戦しますが、最終的には12万もの幕府軍を相手に、寛永15年2月28日(1638年4月12日)、総攻撃を受け討ち死に。

原城に立てこもった一揆軍の中には、意思に反して一揆軍に加入した者もいたであろうことから、幕府側が無理矢理にキリシタンになったものの赦免を認めるという松平信綱の通告を出した際には、「益田四郎 ふらんしすこ」名義の『四郎法度書』(しろうはっとしょ)を出して一揆軍の離脱防止と締め付けを図っています。

現在の高校生ほどの年齢(推定16歳)だったため、実際にはシンボル的な存在として祭り上げられたとする考えもあり、日本の歴史上最大規模の一揆を率いた指導者としての実像は定かでありません。

天草四郎の島原の乱当時の洗礼名は、フランシスコ(Francisco)。

松倉勝家は自らの失政を認めず、キリシタンの暴動だとし、さらに幕府もキリシタン弾圧の口実に利用したため、キリシタンによる一揆という歴史観が広まっていますが、実際には暴政から立ち上がった農民一揆という色合いも濃く、島原の乱と天草四郎の検証を難しくしています。
反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていません。

島原の乱鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、江戸幕府の鎖国政策が始まっており、歴史的な大きな転換のきっかけとなった反乱と、その「総大将」が天草四郎だったことが歴史の教科書にも記されているのです。

原城

2018年2月17日
 

 

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