昭和31年11月8日、東京港晴海埠頭から第1次南極地域観測隊を乗せた「宗谷」(海上保安庁)が出航。昭和30年、世界各国が競って南極観測の計画を進めていることを知った日本政府は第2回「南極会議」に参加(敗戦国で唯一の参加)。急遽、中古船を改造して砕氷船「宗谷」を誕生させたのです。
「国際地球観測年」で南極観測を実施
昭和30年2月に朝日新聞が『北極と南極』を連載したことで、戦勝国といわれた各国が昭和32年7月1日~昭和33年12月31日にの第3回「国際地球観測年」(International Geophysical Year=IGY)にあわせ、競って南極観測の計画を進めていることが周知されました。
それによって、日本政府だけでなく、国民の間にも南極観測への機運が高まります。
南極観測のための船を新造することは費用も高額となり、日程的にも間に合わないことから既存の船を砕氷船に改造することとなりました。
砕氷能力がある青函連絡船「宗谷丸」(3593t)も候補に上がりましたが、観測船には適さないとの結論に達し、候補選びも難航した結果、海上保安庁の灯台補給船(当時の灯台は有人で海路、多くの灯台で物資の補給を行なっていました)となっていた船を砕氷船に改造することに決定。
この船は、昭和13年に耐氷型貨物船として長崎県の川南工業株式会社香焼島造船所で造船され(ソ連向けに耐氷型貨物船「ボロチャエベツ」として建造されましたが引き渡されることなく「地領丸」として活躍)、戦時中は海軍の運送艦「宗谷」となり、戦後は引揚船、そして灯台補給船となっていましたが、耐氷機能があったことから、砕氷船に転用されたのです。
国際地球観測年
国際科学研究プロジェクトのInternational Geophysical Yearを日本では「国際地球観測年」と訳しています。
南極の氷に閉じ込められた情報などを、国際協力で、効率的に得ようと、国境線で南極大陸を分断しないことを前提に、科学的な調査が進められ、昭和34年には南極条約が締結されています。
昭和31年11月8日の朝、南極へと船出
南極観測事業を推進してきた朝日新聞社は1億円を拠出、さらに1億4500万円の募金を集めて、貢献しています。
日本鋼管浅野船渠(あさのドック)で海上保安庁の灯台補給船「宗谷」を砕氷船「宗谷」に改造。
日本で最初にヘリコプターを搭載した船となったのです。
灯台補給船時代には、当時大ヒットした映画『ビルマの竪琴』(昭和31年公開、主演・三國連太郎)、『喜びも悲しみも幾歳月』(昭和32年公開、主演・高峰秀子、佐田啓二)には灯台補給船時代の「宗谷」が登場しています。
戦時中に魚雷が被弾した際に不発だったこと、灯台補給船時代には「海のサンタクロース」と称されたことなど、「宗谷」には強い船運があったのも、砕氷船に転用された大きな理由だったとか。
出発の昭和31年11月8日の朝、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆が集まり、南極へと旅立つ「宗谷」を見送りました。
昭和32年1月24日、南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に接岸、1月29日、上陸して第1次南極地域観測隊が昭和基地を開設、ここに日本の南極観測が始まりました。
2月15日、越冬隊員に見送られ離岸、氷に閉じ込められることもありましたが、4月24日に東京・日の出桟橋に帰港しています。
現在、南極観測船「宗谷」は、「船の科学館」(東京都江東区青海2丁目)のメイン施設として余生を送っています。
南極観測船当時の状態を保ったままに保存され、内部の見学が可能です(急な階段や狭い通路等があるため車椅子での乗船はできません)。
11月8日は、第1次南極地域観測隊出発の日 | |
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