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吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)

吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)

弥生時代後期の環壕(かんごう)集落としては日本一の規模をもち、国の特別史跡にも指定されているのが佐賀県神埼郡吉野ヶ里町の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)。現在、遺跡一帯は国営吉野ヶ里歴史公園として整備されています。3重の壕を巡らした巨大集落は日本における城のルーツともいわれ、日本100名城にも選定されています。

弥生時代の環壕集落としては日本最大の遺跡

南内郭にある支配者層の住居
北内郭に建つ主祭殿
南内郭の物見櫓
竪穴住居や高床倉庫が復元された南のムラ

有明海は中国大陸から日本に稲作が伝来した地と推測され、吉野ヶ里に暮らした弥生人は、渡来人か、あるいは渡来人との混血だと推測できます。
「ムラ」が誕生し、「クニ」へと発展する過程を知ることのできる貴重な遺跡になっています。

吉野ヶ里歴史公園は、その吉野ヶ里遺跡を保存、活用するための国営公園。
吉野ヶ里町と神埼市にまたがる117haもの広大な敷地のうち、現在整備が終わっているのが73.7ha。
環壕集落ゾーン、古代の原ゾーンなど4つのエリアに分けられており、竪穴式住居、物見櫓、高床倉庫などとともに2000年前の「クニ」を復元。

広大な遺跡は、当時の東の正門と考えられている環濠入口、支配者層が住んでいたと推測できる南内郭(物見櫓4棟、竪穴住居11棟など20棟が復元)、祭祀の場で主祭殿の建つ北内郭(祭殿など9棟を復元)、歴代の王墓である北墳丘墓(14基の本物の甕棺や出土品レプリカを展示)、一般の居住者の甕棺墓列、一般の人々の居住地だった南のムラ(高床建物や竪穴住居など27棟を復元)、祭り・政治・儀礼などの道具をつくる中のムラ、『魏志倭人伝』にも記された当時の市も開かれていた倉庫群(倉庫、祠堂、市楼などを復元)などに分かれています。

「弥生くらし館」では火おこしや勾玉づくりも体験可能

また復元水田では、古代の赤米の栽培なども行なわれています。
歴史公園内(東口)メインゲート横に「吉野ヶ里歴史公園レストラン」と売店も完備され、古代米のひとつ「赤米」を使った料理を味わうことができます。

環壕集落ゾーンの出土品の展示室では遺跡から発見された貴重な資料を展示しています。
さらに、南のムラ内の「弥生くらし館」では火おこしや勾玉づくり、土笛づくりの体験も可能。

入口は西口と東口にあり駐車場も両方にあるがJR神埼駅からは西口、吉野ヶ里公園駅からは東口となります。
「吉野ヶ里歴史公園レストラン」は東口の歴史公園センターにあります。

吉野ヶ里遺跡は邪馬台国!?
吉野ヶ里遺跡からは魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子とそっくりな建物跡などが見つかっており、邪馬台国の雰囲気を味わうことも可能です。
ちなみに同じ佐賀県では唐津市には日本最古の稲作遺跡である菜畑遺跡(なばたけいせき)もあり、『魏志倭人伝』の末盧国(まるらこく)の存在との関わりも注目されるところ。

吉野ヶ里遺跡を邪馬台国とするには少し無理がありそうですが、有明海一帯は古代から唐への津(唐津の地名の由来)だったことは間違いありません。
吉野ヶ里は、3世紀末から4世紀初めには途絶してしまいますが、中世には平忠盛(平清盛の父)が日宋貿易の拠点として莫大な利益を上げ、平家の栄華を基盤を築いたのも、その地理的な要因から。

吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)
名称 吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里歴史公園)/よしのがりいせき(よしのがりれきしこうえん)
所在地 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
関連HP 吉野ヶ里歴史公園公式サイト
電車・バスで JR神埼駅、吉野ヶ里公園駅から徒歩15分
ドライブで 長崎自動車道東背振ICから約3.6km
駐車場 東口駐車場(540台/有料)・西口駐車場(310台/有料)・北口駐車場(230台/有料)
問い合わせ 吉野ヶ里公園管理センター TEL:0952-55-9333/FAX:0952-55-9330
佐賀県教育庁文化財課吉野ヶ里担当 TEL:0952-25-7233/FAX:0952-25-7321
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

取材・画像協力/佐賀県観光連盟

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