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大湯間欠泉

大湯間欠泉

熱海温泉に古来からある源泉、熱海七湯(大湯、河原湯、小沢の湯、風呂の湯、清左衛門の湯、佐治郎の湯、野中の湯)のひとつが大湯。熱海市街の中心に、大湯間欠泉としてその姿をとどめています。大湯は、熱海温泉の中心的な存在で、徳川家康も、慶長2年(1597年)、慶長9年(1604年)に、湯治に訪れています。

大湯は将軍献上「御汲湯」にも使われた名湯

4代将軍・徳川家綱は大湯を、真新しい檜の湯樽に汲んで、わざわざ江戸城まで運ばせています。
これが「御汲湯」の始まり。
御湯樽奉行が熱海を訪れ、江戸城まで15時間かけて運搬し、大湯の90度の熱湯がちょうどよい湯加減になったとも。
とくに大湯の温泉を気に入った8代将軍・徳川吉宗は、享保11年(1726年)〜享保19年(1734年)の8年間に3640樽も運ばせたという記録が残されていますが、この時は船を利用して運んでいます。
文政年間には、熱海で汲まれた湯が樽詰めされて江戸の市中で販売され、熱海のネームバリューが江戸庶民に広がっていたことがわかります(『熱海温泉図彙』による)。

そんな歴史のある大湯間欠泉ですが、以前は昼夜6回、熱湯と蒸気の噴出を繰り返していましたが、現在の間欠泉は関東大震災の影響で温泉の噴出が止まったものを人工的に再現したもの。
4分間隔に3分間噴湯させ、昔の面影を偲ばせています。

初代駐日総領事・オールコックと熱海

日英修好条約が締結により日本の5つの港が開港されると、イギリスは、ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB)を日本に派遣。
広州(中国)領事から初代駐日総領事に転身させていますが、そのオールコックも富士登山の帰路、熱海に立ち寄っています。

日本滞在の記録の『大君の都』を著すほど精力的に極東の国を観察したオールコックは、来日した翌年、万延元年7月27日(1860年9月11日)に早くも富士登山に挑戦。
その帰りに熱海に立ち寄り、2週間逗留しています(オールコック著『富士登山と熱海の硫黄温泉訪問』)。
そのとき愛犬トビー(スコティッシュ・テリア)が、大湯間欠泉から噴出した熱湯が原因で大火傷を負い死んでしまうという悲劇が。
このことを不憫に思った熱海の人はトビーの葬儀を行ないますが、オールコックはこのことを本国に報告。
翌年には攘夷派の水戸藩浪士14名が東禅寺の英仮公使館を夜襲する事件が起こるなど、攘夷派の台頭が目につく時代だったのですが、熱海の事件がイギリス本国の対日感情を穏やかにしたともいわれているのです。
間欠泉の横にはオールコックの碑とオールコック自ら「かわいそうなトビー」と刻んだトビーの墓があるのでお見逃しなく。

大湯間欠泉
名称 大湯間欠泉/おおゆかんけつせん
所在地 静岡県熱海市上宿町4-3地先
関連HP 熱海市観光協会公式サイト
電車・バスで JR熱海駅から徒歩15分
ドライブで 西湘バイパス石橋ICから約20km
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 熱海市生涯学習課文化施設室 TEL:0577-86-6231
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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