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了仙寺

了仙寺

静岡県下田市にある日蓮宗の寺、了仙寺(りょうせんじ)。寛文12年(1635年)の下田奉行・今村正長が創建した寺で、下田条約締結の地として、国の史跡に指定。境内に隣接した場所に了仙寺の宝物館が建っています。境内から参道にかけて無数のアメリカジャスミンが植樹されており、「ジャスミン寺」の別名も。

下田条約締結の地として、国の史跡に

嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に武藏国横浜村(現在の横浜市、横浜開港資料館の建つ場所)で締結された全12ヶ条からなる日米和親条約(正式名:日本國米利堅合衆國和親條約/Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)では第2条に下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)ことが記載されていました。

締結後も日米間で交渉は継続し、交渉の場は伊豆国下田の了仙寺へと移され、嘉永7年5月22日(1854年6月17日)に細則を定めた下田条約(全13ヶ条)が締結され、ようやくペリー艦隊は6月1日(6月25日)に下田を去り、琉球へ立ち寄って琉球王国とも通商条約を締結しています。

了仙寺で締結された付属条約である下田条約では、
「アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、箱館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。
アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。」
ーということが定められました。

境内にある五輪塔は、私財を投げ打ち武ヶ浜波除を築いたことでも知られる下田奉行2代・今村正長、4代・今村正成、5代・今村正信の墓で、いずれも江戸時代初期のもの。
また古墳時代築造の横穴古墳もありますが立ち入ることはできません(人骨、勾玉、水晶製切子玉、金銅製腕輪、耳飾、土師器、須恵器などが出土)。

宝物館では、徳川歴代将軍が了仙寺へ発給した朱印状、武田信玄の家督譲状、黒船・異文化交流関連史料(原本3000点以上)などを収蔵展示しています(2ヶ月~3ヶ月ごとに展示替えを実施)。

徳川歴代将軍が朱印状を出し、寺紋も徳川家と同じ三つ葉葵が許されているのは、開山した行学院日朝(身延山久遠寺第11世)が、大坂の陣で眼病を患った徳川家康の病気平癒を祈願し、成就したからだと伝えられています。

現存する本堂は文政9年(1826年)築で、ペリー提督と幕府がが応接所兼交渉場所とした当時のもの。

ちなみに有名なペリーロード(下田に上陸したペリー一行が了仙寺まで行進した道)は、了仙寺の参道ということに。

境内には今村家3代の墓所が
了仙寺
名称 了仙寺/りょうせんじ
所在地 静岡県下田市七軒町3-12-12
関連HP 了仙寺公式ホームページ
電車・バスで 伊豆急下田駅から徒歩10分
ドライブで 西湘バイパス石橋ICから約90km
駐車場 40台/無料
問い合わせ 了仙寺 TEL:0558-22-0657
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

日米和親条約締結の地

嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が横浜村(現・横浜市)の海岸近くで日米和親条約を締結しました。その歴史的な場所が、現在の大桟橋通りが海岸に出るところ、大さん橋ふ頭の付け根に園地として残され、横浜開港資料館前

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