富国強兵政策を背景に20世紀初頭には国内の銅の4割を生産していたという足尾銅山。慶長15年(1610年)に鉱床が発見され、明治16年に生産量日本一になっています。昭和9年に鉱毒流出事件を起こしたことでも有名で、閉山したのは昭和48年のこと。現在は足尾銅山観光として、坑内の一部を開放し、トロッコ電車で入坑できます。
トロッコ電車でかつての坑道に入坑
トロッコ電車で全長700mの薄暗い坑道に入っていくと、江戸から昭和時代にかけての採掘の歴史や採掘の仕組みなどを、動く人形やアナウンスを使って解説。
鉱石から銅になるまでの過程などが展示されている銅資料館など3つの資料館も併設され、日本の近代化を支えた鉱山の歴史を学ぶことができます。
江戸時代には足尾銅山で産した銅でつくられた銅瓦が日光東照宮、江戸芝の増上寺、上野の寛永寺の建築や江戸城の増改築に使われ、これに応じて銅山街道(あかがね街道)が整備されています。
さらに、寛保元年(1741年)から5ヶ年にわたって足尾で産する銅4万貫(150t)を用い、2000万枚の寛永通宝(一文銭)を鋳造してます。
裏に「足」という文字が刻印されているので、足尾銭と呼ばれています(この足尾銭をかたどった土産も販売されています)。
日本の近代化を支えた銅山は近代化産業遺産
明治4年の民営化後、明治10年に古河市兵衛が陸奥宗光や渋沢栄一の資金援助を頼りに近代的な経営を導入し、明治23年には、ドイツ人技師へルマン・ケスラーを招いて、我が国最初の水力発電所を間藤に建設(間藤発電所)するなどの近代化施策が功を奏し、鷹の巣直利(たかのすなおり/明治14年)、横間歩大直利(よこまぶおおなおり/明治17年)の発見もあって(直利=鉱脈)、明治20年代に、国内銅生産量の4割を占めるまでに発展しています。
第一次世界大戦による好景気には旧足尾町の人口は3万8000人を数え、宇都宮に次ぐ、栃木県第2の都市として繁栄していました。
足尾鉱毒事件や労働争議を抱えながらも日本の近代化を支えた足尾銅山も、昭和48年2月28日に閉山。
昭和55年に足尾銅山観光として観光、学習施設として再出発しています。
通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定されるほか、「銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」として経済産業省の近代化産業遺産(近代化産業遺産群33)に認定。
さらに日本の地質百選に選定されています。
足尾銅山観光 | |
名称 | 足尾銅山観光/あしおどうざんかんこう |
所在地 | 栃木県日光市足尾町通洞9-2 |
関連HP | 日光市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | わたらせ渓谷鐵道通洞駅から徒歩5分 |
ドライブで | 北関東自動車道伊勢崎ICから約46km |
駐車場 | 200台/無料 |
問い合わせ | 足尾銅山観光管理事務所 TEL:0288-93-3240 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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