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オタア・ジュリアの十字架

オタア・ジュリアの十字架

東京都大島町、伊豆大島の南東部、カキハラ磯の北、筆島を眼前にする海岸にあるのがオタア・ジュリアの十字架。慶長17年(1612年)、神津島へ遠島になった家康の側室付きの侍女オタア・ジュリア(ジュリアおたあ)に因んだもの。

オタア・ジュリアの波乱の生涯を偲ぶ十字架

オタア・ジュリア(ジュリアおたあ)は朝鮮の両班(ヤンバン=支配階級)の娘といわれ(出自は定かでありません)、豊臣秀吉の朝鮮出兵・文禄の役で、保護され(当時3歳前後の少女)、キリシタン大名・小西行長の妻・菊姫(洗礼名・ジュスタ) のもとで暮らし、肥後国天草郡志岐(現・熊本県天草郡苓北町志岐)のイエズス会修道院長ペドロ・モレホン神父の洗礼を受けてキリスト教徒に。
関ヶ原合戦後は、駿府城の大奥で、家康側室の侍女になっています。
キリシタン棄教の要求を拒否、家康の側室となることを拒んだなどの罪で、慶長17年(1612年)の天領に対するの禁教令で駿府を追われ、慶長18年(1613年)の伴天連追放之文(バテレン追放令)で遠島となり、伊豆・網代(あじろ)から伊豆諸島の流されました。
伊豆大島で30日間滞在した後、15日間新島で過ごし、さらに神津島へと流刑になっています。

その後は、大坂に暮らし、最後は長崎で余生を送ったとフランシスコ・パチェコ神父の書簡( 1622年2月15日付「日本発信」)にはありますが、神津島の郷土史家が、オタア・ジュリアは神津島で没したと主張したことがあり(「日本発信」が発見される以前です)、神津島もゆかりの島といわれています。
イエズス会、大英博物館が所蔵する宣教師らの書簡からも、網代を発つ際の嘆きなど、オタア・ジュリアの名が数多く見つかっているので、赦免され最後が長崎暮らしだったことは確実視されています。

筆島海岸のことを地元でオタイの浦と呼ぶのは、大島の方言では目上の女性を「ネエ」を付けて呼ぶことから「オタアネエ」が転訛してオタイネになり(地元ではオタア・ジュリアはオタイネと呼ばれています)、さらにオタイになったと推測できます。

海岸に立つ白い十字架は、キリスト教信者の有志が建立したもの。
オタイネ明神と呼ばれる祠もありますが、オタア・ジュリアとは無関係です。

十字架までは、カキハラ磯沿いにある遊歩道を使って到達できますが、大島一周道路・東京都道208号大島循環線沿いの筆島見晴台(駐車場)からも筆島と反対側に遠望できます(このパーキングから遊歩道も伸びています)。

ちなみに桑田佳祐の楽曲に、『夢に消えたジュリア 』があり、歌詞もオタア・ジュリアをオマージュするような内容ですが、たまたま曲を作っているときに「夢に消えたジュリア」という言葉が出てきてもので、後から知って驚いたと話しています。

オタア・ジュリアの十字架
名称 オタア・ジュリアの十字架/おたあ・じゅりあのじゅうじか
所在地 東京都大島町波浮港
電車・バスで 元町港からタクシーで30分
ドライブで 元町港から約17km
駐車場 5台/無料
問い合わせ 大島町観光課 TEL:04992-2-1446
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

ありま展望台

東京都神津島村、神津島の前浜の南、前浜越しに天上山を眺める絶景の展望台がありま展望台。神津島港から歩くと40分ほどかかりますが、その景観は汗と疲れを忘れ去るほど。展望台にある十字架は、大島、新島を経て神津島に島送りとなった、オタア・ジュリア

踊子の里資料館

東京都大島町波浮港、川端康成の小説『伊豆の踊子』に登場する踊子たちが住んでいたのが、大島の南端・波浮港(はぶみなと)。『伊豆の踊子』は、その波浮港の港屋旅館の酒宴で芸を披露していた大島の旅芸人一座がモデルで、港屋旅館が廃業後、資料館として再

 

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