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ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵

ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵

東京都練馬区春日町2丁目にある丹沢・大山への大山道(大山街道)の標石(しるべいし)と地蔵尊が、ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵。大山道は、環状八号線の開通で旧道の姿を失っていますが、随所に大山詣でに関する遺構が残されており、そのひとつが春日町の標石です。

かつてはこの地に大山街道の一里塚があった

ふじ大山道は道者街道(道者=霊場へ参詣・巡拝する旅人)、富士講の人たちが富士登拝に利用したことから富士街道とも呼ばれ、阿夫利山ともいわれた丹沢・大山へと通じる街道。
神仏習合時代には、丹沢・大山の大山寺に祀られる不動明王、大山山頂に祀られた石尊大権現(せきそんだいごんげん)の霊験から大山詣りという信仰登山が盛んに行なわれました。
石尊大権現は、大山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神(仏が神という仮の姿で現れたもの)で、山中の大山寺に祀られた不動明王が本地仏(本地垂迹説で神の真の姿とされる仏)で、山頂へは旧暦6月28日から7月17日まで登拝が許されていました。

ちょうど、富士講の富士山登拝、現代風にいえば「夏山登山シーズン」と重なるため、大山詣で、富士山登拝を合わせた「両詣で」が行なわれたため、大山道は、ふじ大山道と通称されたのです。

ふじ大山道は、志村(板橋区)で中山道(なかせんどう)から分かれ、下練馬宿(練馬区)を通り、田無、府中を通り伊勢原へと伸びていました。
街道の分岐に置かれたのが「従是大山道」と記された標石です。

環八通りに面して立つ春日町の「ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵」は、覆屋の中に安永3年(1774年)造立の六十六部供養塔(六十六部=全国の社寺霊場を仏道修行のために巡礼する人)、地蔵尊、ふじ大山道道標が置かれています。
地蔵尊(新旧2体あります)は、安永年間に建立されたもので、当時はくぬぎ並木が続き、追い剥ぎが出るような土地だったとか。
新しい地蔵尊は昭和31年に一里塚子育地蔵尊として再建されたもの。

ここから石神井一里塚までおよそ1里(約4km)あるので、ここに練馬一里塚があり、一里塚子育地蔵と呼ばれたと推測できます(環状八号線開通以前は塚があったとのこと)。

ふじ大山道の標石は、下練馬宿の川越街道との分岐点に、練馬区の文化財に指定される下練馬・ふじ大山道道標(「下練馬の大山道道標」)が残されています。

練馬区内には中里の富士塚、下練馬の富士塚、江古田の富士塚、氷川神社富士塚(練馬区北町)と富士塚が4ヶ所も残され、富士講が盛んだったエリアなので、こうした標石が残されたのかもしれません。

ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵
名称 ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵/ふじおおやまみちどうひょう・いちりづかこそだてじぞう
所在地 東京都練馬区春日町2-9
電車・バスで 都営地下鉄練馬春日町駅から徒歩6分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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