東京都港区三田3丁目、第一京浜国道(国道15号)と山側の聖坂の間にあるのが、元和キリシタン遺跡。慶長17年(1612年)の禁教令以降、江戸でも多くの潜伏キリシタンが信教を守り、元和9年10月13日(1623年12月4日)、キリシタン50人が殉教しています。その処刑の地と推定されるのが、元和キリシタン遺跡です。
高輪の高台で、潜伏キリシタン、宣教師ら50人が火あぶりに
処刑されたなかには徳川家康の小姓で、駿府で家康の側に仕えた原主水(はらもんど=原胤信・はらたねのぶ)もいました。
慶長5年(1600年)、大坂でモレホン神父から受洗し、キリシタン(ヨハネ原主水)となりましたが、幕府の禁教方針に背き、母方の粟飯原(あいはら)一族を頼り、岩槻城下(現・埼玉県さいたま市)に身を潜めて信仰を続けますが、慶長19年(1614年)、岩槻藩主・高力忠房によって捕縛され、棄教を迫られますが、それを拒否。
家康は激怒して額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で元和元年(1615年)に追放。
原主水は、浅草のハンセン病患者の家でキリスト教を捨てずに暮らしますが、元和9年(1623年)、宣教師らとともに伝馬町牢獄から引き出され、江戸市中引回し(現在の室町〜日本橋〜京橋〜銀座〜新橋〜浜松町〜三田〜芝口)の上、高輪・札の辻(高札場)で火刑となっています。
このとき火刑となった宣教師には、イエスズ会のジロラモ・デ・アンゼリス神父、フランシスコ会のフランシスコ・ガルベス神父がいます(処刑された50人の中、 37人の名前が判明)。
原主水は火あぶりの中、「イエズス・キリスト様は私には永遠の報酬に在すであろう」 と叫びました。
イエズス会クリストヴァン・フェレイラ神父、フランシスコ会ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父の報告書、 それに『オランダ商館日記』などに 「東海道に沿った海の見える小高い丘」 とだけ記されています。
徳川家光が3代将軍に就任、さらに強まった江戸のキリシタン弾圧
原主水が処刑された元和9年(1623年)は、徳川秀忠が隠居し、徳川家光が3代将軍に就任する年で、徳川将軍家の安寧(あんねい)のために徹底的な弾圧を行なったことがよくわかります。
徳川家光は、父・徳川秀忠の助言、さらに老中・土井利勝(どいとしかつ)、永井尚政(ながいなおまさ)、 酒井忠世(さかいただよ)などの意見を取り入れ、50人の処刑を決定。
処刑の日、10月13日(旧暦)は仏滅にあたります。
江戸参府の諸大名にも見せ付ける場所として、高輪、江戸城から1里半の札の辻 の山の斜面が選ばれたのです。
江戸市中からは多くの人々が集まり広い野原や周りの丘は群衆で一杯で、そのなかには江戸参府途中の大名も含まれていました。
潜伏キリシタンに対する弾圧というと長崎を思い浮かべますが、江戸でも激しい弾圧があり、その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンを匿った人々をも含め、高輪で100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くの人が殉教しています。
江戸のキリシタンが殉教した地(江戸キリシタン殉教地)は、東海道・高輪の札の辻(高札場)ほか、浅草の鳥越の刑場(現・浅草カトリック教会の裏手)、小伝馬町牢獄、品川海岸、四谷、奥州街道の入口などで、人の目につきやすい場所での処刑も行なわれています。
元和キリシタン遺跡 | |
名称 | 元和キリシタン遺跡/げんなきりしたんいせき |
所在地 | 東京都港区三田3-7-8 |
関連HP | 港区観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 都営地下鉄三田駅・泉岳寺駅から徒歩8分、JR田町駅から徒歩10分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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