東京都府中市分梅町1丁目の住宅地の中にある古墳が、高倉塚古墳。6世紀前半(古墳時代後期)に築かれた直径22m、高さ2.5mほどの円墳ですが、古墳自体は公園化されて残存していますが、住宅が迫り、その一部が削られています。すぐ南に府中崖線(ハケ)が通っています。
府中崖線沿いに築かれた高倉古墳群の主墳
府中市を横断する府中崖線(ハケ=多摩川の浸食跡で高さ数mの崖の連続するライン)の北、河岸段丘上(関東ローム層)には、確認されているだけで27基の古墳があり、高倉古墳群と呼ばれています(西側には御嶽塚古墳群も)。
高倉古墳群は農業や都市化の波で多くの墳丘が破壊され、現存する古墳は4基のみ。
その中心的な存在がこの高倉塚古墳で、古来から高倉塚と呼ばれ、中世から信仰の対象になったことで破壊を免れました。
発掘調査で6世紀前半の土師器坏(はじきつき=素焼きの食器のうち、深皿のこと)が出土し、年代確定の手がかりになっています。
高倉塚古墳の東側には大國魂神社、武蔵国府跡があり、一帯が古代の武蔵の中心だったことがわかります。
府中市内では武蔵府中熊野神社古墳が、国内にも例の少ない上円下方墳なので、あわせて見学を(北西へ1.5km、徒歩20分)。
古墳時代後期、多摩川流域が本格的に開発され、集落と古墳が築かれた!
被葬者に関しては定かでありませんが、下流側の狛江古墳群も円墳が集中的に築造され、銘文のある中国鏡や銀環、馬具など、大陸的な要素の濃い副葬品が出土していることから、朝鮮半島からの渡来人が築いたものだと推測されています。
古墳時代後期には多摩川流域の家父長的世帯共同体が確立し、有力な家族は、首長層と同一の墓制を採用し、小規模な円墳を築いたのです。
古墳時代後期には、多摩川流域が本格的に開発され、律令時代の到来(国府の設置)、奈良・平安時代へとつながっています。
高倉塚古墳 | |
名称 | 高倉塚古墳/たかくらづかこふん |
所在地 | 東京都府中市分梅町1-11-2 |
関連HP | 府中観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR・京王鉄道分倍河原駅から徒歩7分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
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