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石川島灯台

石川島灯台

東京都中央区佃1丁目、中央区立佃公園の一角に建つのが、石川島灯台。隅田川河口、品川沖を航行する船の安全ための常夜灯として築かれた石川島灯台を復元したモニュメントで、佃川支川が隅田川に合流する住吉水門近くに建ち、石川島の歴史を今に伝えるシンボル的な存在になっています。

モニュメントとして復元された灯台は、公衆トイレ

現在の中央区佃1丁目〜佃2丁目は、かつての石川島。
寛永3年(1626年)、船手頭の石川家4代・石川八左衛門正次が幕府から1万7000坪の土地を拝領して石川島、八左衛門島と呼ばれるようになったのです。
石川家は寛政4年(1792年)、11代・石川正勲の時代に島を去るまで、石川島に屋敷を構えていました。

寛政2年(1790年)には池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』でお馴染みの火付盗賊改・長谷川平蔵の提案で、老中・松平定信は石川島に人足寄場を設置し、石川家が去った後に石川島全体が人足寄場となっています。
設置の背景には、天明2年(1782年)〜天明7年(1787年)の天明の大飢饉による政情不安、犯罪の増加がありました。
人足寄場(にんそくよせば)とは、戸籍から外された無宿人、軽罪人らの収容、社会更正・復帰を目的とした施設で、石川島の佃島側を埋め立て、長谷川平蔵が自ら初代責任者に就任しています(ここれが日本における刑務所のルーツです)。

人足寄場での仕事は、大工、建具、塗物、紙漉き、米搗き、油絞りなどで、就労すると賃金が支給され、一定の金額に達した場合には、身元引受人を探して(戸籍を付与)釈放され、社会復帰を果たしたのです。

慶応2年(1866年)、人足寄場奉行・清水純崎(しみずじゅんき)が人足寄場で生産した油絞りの益金を利用し、人足寄場の西岸に築いた六角2層の常夜灯が石川島灯台。
灯台の完成で江戸湾から日本橋方面に入る船の航路、近在漁師の安全が図られたのです。

現在の石川島灯台は、モニュメントで灯台としての機能はなく、公衆トイレになっています。

石川島灯台
名称 石川島灯台/いしかわじまとうだい
所在地 東京都中央区佃1-11-4
電車・バスで 東京メトロ・都営地下鉄月島駅から徒歩7分
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

佃公園

東京都中央区佃1丁目、石川島の隅田川に架かる中央大橋から下流側と佃川支川沿いに広がる中央区立公園が、佃公園(つくだこうえん)。佃公園という名がありますが、江戸時代には火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)・長谷川平蔵の提案で人足寄場が築かれた

石川島公園

東京都中央区佃2丁目・3丁目、石川島の隅田川(中央大橋より上流部)、隅田川派川沿いに続く区立の公園が、石川島公園。江戸時代に人足寄場が置かれ、近代以降には石川島造船所、石川島重工業、石川島播磨重工業(現・IHI)があった場所で、現在は大川端

 

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