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馬場先濠

馬場先濠

東京都千代田区皇居外苑、環境省の国民公園になっているかつての江戸城の内堀の一部が、馬場先濠(ばばさきぼり)。南に日比谷濠、北に和田倉濠が続き、寛永6年(1629年)、日比谷濠との境には馬場先門が築かれています。馬場先門の枡形は失われていますが、濠は昔のままに残されています。

朝鮮通信使一行が家光に馬上の曲芸を披露したことが名の由来

馬場先という名の由来は、現在の皇居外苑部分に、江戸時代の初期に馬場があったという説、朝鮮通信使の曲馬(朝鮮では軍事訓練の種目として馬上才・マサンゼと呼ばれる馬上での妙技を競う競技が盛んでした)を3代将軍・徳川家光が観覧したことで朝鮮馬場と呼ばれるようになったという説がありますが、後者が有力。
寛永12年(1635年)、江戸城の矢代州川岸(江戸城の馬場先門跡あたり)で、臨時の朝鮮馬場を造り、側に桟敷が設けて、徳川御三家や諸大名を集めての馬上才が行なわれています。
朝鮮通信使は、馬術に堪能な金貞(キムジョン)、張孝仁(チャンヒョイン)の馬上才と駿馬2頭を帯同し、将軍、諸大名や御家人に妙技を見せたのです。

日朝間の交隣関係の正常化を願って朝鮮通信使に馬上才を行なう朝鮮曲馬師の帯同を求めたものと推測され、この年、朝鮮通信使は徳川家康の眠る日光東照宮を参拝しています。

馬場先門は、防御に優れた枡形門でしたが、明治37年、日露戦争の戦勝祝賀の提灯行列が、東京府庁舎(現在の東京国際フォーラム)を経て、馬場先門の枡形に殺到、20名の死者が出たため、桝形石垣と橋が撤去され、堀も埋め立てられ72m幅の道路となったのです。

関東大震災以前には、馬場先門から丸の内にかけては、ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)設計の三菱二号館(明治28年築/現・明治生命館)、三菱一号館(明治27年築/現・三菱一号館美術館)、妻木頼黄(つまきよりなか)設計の東京商業会議所(明治32年築/現・東京會舘本舘)などのレンガ造りの建物が並び、壮観な光景で、ロンドンのような町並みということで「一丁倫敦」と称されていました。
今は丸の内の近代的で耐震性を備えたオフィス街へと変身していますが、重厚な雰囲気を残しています。

ちなみに、馬場先濠は南側に連続する日比谷濠と同様に、徳川家康の江戸城築城時(天下普請での築城時)には、日比谷入江という浅い海だった場所で、馬場先濠、日比谷濠は海の名残りともいえる場所です(周辺は埋立地)。

北側の江戸城和田倉門守衛所跡から眺めた馬場先濠の夜景
馬場先濠
名称 馬場先濠/ばばさきぼり
所在地 東京都千代田区皇居外苑2
関連HP 国民公園協会公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄二重橋前駅からすぐ
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

日比谷濠

東京都千代田区皇居外苑、江戸城を囲む濠(内堀)の一部が、日比谷濠(ひびやぼり)。祝田橋〜馬場先門の間の濠で、東南の角部分にあたります。濠の内側が有名な楠木正成像のある皇居外苑、南側が日比谷公園、東側に東京會舘、帝国劇場が並んでいます。かつて

和田倉濠

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皇居外苑

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