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宝仙寺(中野不動尊)

宝仙寺(中野不動尊)

東京都中野区中央2丁目、東京メトロ・中野坂上駅の北西にある真言宗豊山派の寺が、宝仙寺。関東三十六不動尊霊場15番札所で、中野不動尊とも称されています。平安時代の寛治年間(1087年~1094年)、源義家(みなもとのよしいえ)によって創建されたと伝わる名刹です。

江戸時代、三重塔は「江戸六塔」に数えられる名塔だった

寺伝によれば、永保3年(1083年)、源義家は陸奥守となり後三年の役(清原武衡・清原家衡と源義家の合戦)を平定して帰京の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置したのが宝仙寺の始まり。

本堂内陣の壇上には良弁作と伝えられる秘仏の本尊に代わって鎌倉時代作の不動明王の立像を中心に五大明王像が配されています。
壁画や天井絵は日本画家・澤田政廣(さわだせいこう)の作品。

江戸時代には徳川将軍家の尊崇があり、鷹狩の休憩所となっています。
寛永13年(1636年)には三重塔が建立され、2代歌川広重の『江戸名勝図会』にも三重塔とそれを参拝する人々の様子が描かれています(往時は境内も広く、現在の中野区立第十中学校の付近に三重塔が建っていました)。

寛永寺五重塔(上野動物園内に現存)、池上本門寺五重塔(現存)、増上寺五重塔(東京大空襲で焼失)、浅草寺五重塔(東京大空襲で焼失、戦後コンクリート造で位置を変えて再建)、谷中天王寺五重塔(放火により焼失)とともに江戸六塔にも数えられていました。
現存する三重塔は平成4年の再建(飛鳥様式)です。

明治28年から昭和の初期まで中野町役場(昭和7年発足の初代・中野区役所)が境内にあるなど、地域の拠点ともなっていました。

『江戸名所図会』中野寶仙寺

 江戸市中を中心に「象ブーム」を起こした象の骨と牙『馴象之枯骨』

寺宝のひとつに、『馴象之枯骨』(じゅんぞうのここつ)がありますが(非公開)、これは享保13年(1728年)にベトナムから8代将軍・徳川吉宗に贈られた象の骨と牙で、象は長崎から江戸へと陸路で2ヶ月半を費やして運ばれ(箱根越えでは険しい山道で倒れそうになったので饅頭を与えて回復したというエピソードも)、現在の浜離宮庭園で飼育された後、寛保元年(1741年)4月に中野村の百姓・源助に払い下げられ、源助の死後、骨と牙をが宝仙寺へ奉納されたもの。

なぜ、中野村の百姓・源助に象が下賜かといえば、源助は、象の糞(ふん)を材料に、はしかや天然痘に効くという薬「象洞」(ぞうほら)を販売、江戸市中の象ブームに乗っての便乗商法で儲けていたのです。
源助は、現在の中野区立朝日が丘公園あたりに象の飼育小屋「象厩」(きさや)を設け、見物料を取って見世物にもしていました。
翌年、寛保2年12月13日(1743年1月8日)に息を引き取っていますが、飢えや寒さで死んだとも、病死したともいわれ、死因は定かでありません。

商魂たくましい源助は、象の死後も頭骨と牙2本を見せ物にしようと考えます。
これが、『新編武蔵風土記稿』、『江戸名所図会』に記載される「馴象之枯骨」で、源助の死後、宝仙寺に奉納されたのです。
太平洋戦争では、中野も激しい空襲を受け、寺も焼失。
本尊などを持ち出すのが精一杯の状態で、焼け残ったのは黒い一本の牙だけとなりました。
中国に出征していた時の住職は、「いつまでも見せ物になるのはかわいそう」と非公開にしたもの(牙の一部は昭和の人気漫画『フクちゃん』の作者・横山隆一に譲渡され、高知市の横山隆一記念まんが館に収蔵保管されています)。

『新編武蔵風土記稿』馴象之枯骨
宝仙寺(中野不動尊)
名称 宝仙寺(中野不動尊)/ほうせんじ(なかのふどうそん)
所在地 東京都中野区中央2-33-3
関連HP 宝仙寺(中野不動尊)公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ・都営地下鉄中野坂上駅から徒歩5分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 宝仙寺 TEL:03-3371-7101/FAX:03-3371-7152
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

江戸を騒がせた「三大珍獣」とは!?

享保13年(1728年)に長崎・出島から江戸まで旅をし、将軍・徳川吉宗が観覧した「享保の象」、寛政10年(1798年)、品川沖に姿を見せた「寛政の鯨」、文政4年(1821年)にやはり長崎から江戸に運ばれ、江戸で多くの興行が行なわれた「文化の

 

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