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芸能浅間神社

芸能浅間神社

東京都新宿区新宿5丁目、新宿の繁華街にある新宿の総鎮守が、花園神社(はなぞのじんじゃ)。境内社のひとつで昭和3年創建の社が、芸能浅間神社(げいのうせんげんじんじゃ)。祭神は富士山信仰と同じ木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)で、場所柄、多くの芸能人が参拝しています。

昭和3年創建、芸能人ゆかりの芸能上達の社

芸能浅間神社は小さいながらも富士塚の上に位置することが特徴。
溶岩の小山の麓に配された石碑は、内藤新宿を中心とした富士講の講中(こうじゅう)、内丸講(うちまるこう)の奉納であることがわかります。
内丸講(内丸元講)は、富士山・吉田口登山道の馬返に大先達・鈴木半が文政元年(1818年)に奉納した石碑も残り、甲州街道最初の宿場である内藤新宿には、地の利を活かして富士講の人々がたくさんいたことが推測できます。

新宿富士とも呼ばれる富士塚ですが高さはわずかに1.5mのミニサイズ。
木花之佐久夜毘売を祭神とする富士山信仰は、富士山の山体が神で、山麓の溶岩をその胎内とするため、安産や子育ての神として祀られることが多く、あえて芸能としたのは、昭和3年、すでに新宿は芸能人のたまり場だったから。
甲州街道を走る路面電車として京王電気軌道線(現・京王線)が新宿追分駅(現在の新宿3丁目あたり)まで開通したのが大正5年、小田原急行鉄道(現在の小田急)も大正11年に新宿3丁目〜小田原の鉄道免許を取得し、昭和2年に開業。
つまり、芸能浅間神社が創建された昭和3年は、新宿発展の始まりの年なのです。

昭和40年代に唐十郎(からじゅうろう)率いるアングラ劇団「状況劇場」が紅テント公演をしたのもこの花園神社境内で、藤圭子が歌った昭和45年のヒット曲『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑も建立されています。

当時は、隣接するゴールデン街には、加藤武男(かとうたけお=レパートリーは3000曲という「ゴールデン街の名物」)に代表される流しのギター弾きもいて、芸能人や文化人が多く集まる一角でした。

芸能浅間神社の境内には、昭和45年のヒット曲『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑、八代亜紀が昭和56年に奉納した社号標、唐十郎を筆頭に『池上線』の西島三重子、なべおさみ、湯原昌幸、ビリー・バンバン、ビートたけしなど、多くの芸能人が奉納した玉垣などがあるのでお見逃しなく。

芸能浅間神社
名称 芸能浅間神社/げいのうせんげんじんじゃ
所在地 東京都新宿区新宿5-17-3
場所 花園神社
関連HP 花園神社公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ・都営地下鉄新宿三丁目駅から徒歩5分。JR・京王電鉄・小田急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄新宿駅から徒歩10分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 花園神社 TEL:03-3209-5265/FAX:03-3209-5645
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

花園神社

東京都新宿区新宿5丁目、新宿の繁華街にある新宿の総鎮守が、花園神社(はなぞのじんじゃ)。徳川家康の関東入封以前に、大和国・吉野山から稲荷神を勧請して創建したと伝えられています。境内社の芸能浅間神社には多くの芸能人が奉納し、新宿と芸能の深い関

『圭子の夢は夜ひらく』歌碑

東京都新宿区の花園神社境内にあるのが『圭子の夢は夜ひらく』歌碑。『圭子の夢は夜ひらく』は、昭和44年9月25日に『新宿の女』でデビューし、続く『女のブルース』と連続のヒットとなった藤圭子の3枚目のシングルレコード。作詞の石坂まさをとコンビを

 

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