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西念寺・服部半蔵の墓

西念寺・服部半蔵の墓

東京都新宿区若葉町2丁目、四谷総鎮守・須賀神社の東にある浄土宗の寺が、西念寺。文禄2年(1593年)、服部半蔵(服部正成)が開基したという寺で、境内には服部半蔵の墓があるほか、寺宝に徳川家康から拝領したと伝わる服部半蔵の槍があります(子孫から奉納されたもの)。

徳川十六神将のひとり、服部半蔵が眠る寺

世間で服部半蔵として知られ、江戸城に半蔵門の名を残しているのは、2代目・服部半蔵の正成のこと。

伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆(家康の伊賀越えを助けた甲賀の武士)の指揮権を有していたため、『忍者ハットリくん』など忍者のイメージがありますが、実際には足軽を率いた武士で、「鬼半蔵」と恐れられた槍の使い手です。

服部半蔵の屋敷は当初、現在の半蔵御門内にあり、後に現・清水谷公園あたりにあったと伝わりますが、定かでありません。
屋敷や、西念寺のある四谷・麹町界隈は、将軍家の避難ルートである甲州街道沿いに位置し、徳川御三家や親藩屋敷、旗本の屋敷、伊賀組の屋敷などが配されていました。

西念寺は、服部半蔵が松平信康(まつだいらのぶやす=徳川家康の長男で、家康の命により切腹)の菩提を弔うために建立した寺です。
二俣城(現・静岡県浜松市天竜区二俣町)で切腹した際、介錯を務めたのが服部半蔵だったのです。

松平信康が切腹するまでに追い詰められたのは、江戸時代に旗本・大久保忠教(おおくぼただたか=東京・白金台にある八芳園が屋敷跡)による著作『三河物語』では正室・徳姫(織田信長の長女=織田・徳川連合による政略結婚)と信康、今川家の血筋の姑・築山殿と不仲だったため、築山殿が武田勝頼と内通したと信長に讒言したからとされていますが、近年では重臣との不仲説、家康との親子関係の悪化が原因、あるいは背景にという説も強くなっています。

西念は、服部半蔵が剃髪出家した際の法名「専称院殿安譽西念大禅定門」(せんしょういんでんあんよさいねんだいぜんじょうもん)からとったもの(専称山安養院西念寺)。
寛永11年(1634年)、江戸城拡幅の際、外堀新設のため、現寺地に移っています。
往時の堂宇は昭和20年の空襲で焼失(服部半蔵の槍も空襲で柄が焼け焦げています)、現在の本堂は昭和36年の再建です。
本堂の書院は、大多喜城本丸御殿の一部を移築したものです。

境内には文禄2年(1593年)、服部半蔵が建立したと伝わる岡崎三郎信康供養塔(松平信康供養塔)もあります(霊廟は浜松市天竜区二俣町の清瀧寺)。

西念寺・服部半蔵の墓
名称 西念寺・服部半蔵の墓/さいねんじ・はっとりはんぞうのはか
所在地 東京都新宿区若葉2-9
関連HP 西念寺公式ホームページ
電車・バスで JR・東京メトロ四ツ谷駅から徒歩10分
問い合わせ 西念寺 TEL:03-3351-0662/FAX:03-3356-6751
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

清瀧寺

応永12年(1405年)、長安坊がこの地に草庵を構えたのが始まりという浜松市天竜区二俣町にある古刹。戦国時代さなかの天正7年(1579年)9月25日、徳川家康の長男・松平信康は、妻である徳姫(織田信長の娘)に武田方に内通した嫌疑を掛けられ、

 

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