直径109mで日本最大の円墳が、奈良県奈良市にある富雄丸山古墳。4世紀後半の築造と推測されていますが、大型蛇行剣(だこうけん)、盾形銅鏡(たてがたどうきょう)という出土例のない国宝レベルの埋蔵品が見つかり、「空白の4世紀」、「謎の4世紀」と称される倭国の4世紀の歴史を解明する手がかりと期待されています。
まずは年表で「空白の4世紀」を確認
年代 | 内容 |
57年 | 倭奴国王が後漢に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を受け取る (志賀島出土の「金印」) |
107年 | 倭国王・師升らが後漢・安帝に使いを送り生口(せいこう)160人を献上 (生口=奴隷という説、奴隷ではないという説があります) |
147年〜180年頃 | 倭国大いに乱れる |
189年頃 | 諸国が共同で卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国設立) |
239年 | 卑弥呼、魏の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号を受け取る (金印、銅鏡などが卑弥呼に贈られる) |
243年 | 卑弥呼、魏の皇帝に再び使いを送る 邪馬台国と狗奴国(くなこく)の紛争続く |
247年頃 | 卑弥呼死去し、巨大な墓を造営(箸墓古墳?) 男王が立つものの、倭国を統治できず |
250年頃 | 男王に代わり、卑弥呼の一族の娘・壱与、女王となる (この頃、ヤマト王権設立) |
266年頃 | 壱与が魏に代わった西晋(せいしん)の都・洛陽に使者を送る |
300年頃 | 前方後円墳が近畿、瀬戸内、北九州に出現 |
▲ (空白の4世紀) ▼ | ヤマト王権が国内をほぼ統一(350年頃) |
372年 | 百済王、倭王に七支刀(しちしとう)を贈る(石上神宮七支刀) |
391年 | 倭国、海を渡り百済・新羅を攻める |
日本の古代史を探る場合、中国の歴史書『三国志』なかの「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条、通称『魏志倭人伝』など、中国の史書に頼ることが大部分です。
飛鳥時代の律令制開始以前の倭国では、公式な記録(史書)がなく、中国の王朝の記録から読み解くことが重要な鍵となるのです。
西晋の陳寿が3世紀末に記したのが3世紀頃の倭国を記した『魏志倭人伝』。
女王・卑弥呼(ひみこ)が邪馬台国(やまたいこく)を治めていたことが記されていますが、その邪馬台国が畿内にあったのか、はたまた九州にあったのかは学説が分かれるところです(現在は纏向遺跡とする畿内説が有力)。
上の年表からもわかるように、266年、13歳で女王となった卑弥呼の後継者・壱与が魏の都・洛陽(らくよう)へ使者を派遣、男女の生口(奴婢)30人を献じていますが、この266年の使節派遺を最後として中国の史書における邪馬台国の記録も途切れています。
372年に百済王が倭王に七支刀を贈ったというのは、奈良県天理市の石上神宮に伝わる国宝の鉄剣に金象嵌で記された銘文で、その銘文を解読するとこうした史実が浮かび上がてくるのです(『日本書紀』にも七枝刀の記述があります)。
つまり、「空白の4世紀」、「謎の4世紀」とされるのは、具体的には266年〜372年の間ということに。
この間に邪馬台国がヤマト王権に代わり、地方の豪族を束ねたヤマト王権が誕生する過程が、中国の史書にない期間というわけです。
巨大な盾形銅鏡と剣が出土と、国宝級の大発見!
日本最大の円墳、奈良県奈良市にある富雄丸山古墳の墳丘の北東部の造出(つくりだし)と呼ばれる長方形の張り出し部分(祭祀などに使用した張り出し)から2022年度〜2023年度の調査で、納められた木棺とともに大型蛇行剣、盾形銅鏡などの特異な副葬品が出土。
出土した鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)は、長さ64cm、最大幅31cmと大きさも巨大な上(鏡面の面積はこれまでに出土した古代の銅鏡では最大)、中国の神仙思想における神と獣の表現が形骸化した倭国固有の鼉龍文と呼ばれる文様が描かれています。
この銅鏡、国産と推測できるため、4世紀の倭国が高い金属工芸技術を有していたことも明らかになっているのです。
また銅鏡の形も日本国内で出土する銅鏡6000面はすべてが円形であるため、盾形はきわめて稀な形状ということになり、なぜ盾形という大きな疑問も生まれます。
出土した大型の蛇行剣も非常に特異なもの。
通常の副葬品が60cm〜70cmであるのに対し、なんと装具を含めると4倍以上という285cmという長大なものなのです。
こんなに長い剣は、当然、実戦では振り回すことはできないので、実用ではなく儀式用であることがわかります。
長大な銅剣を古墳に埋葬したということは、被葬者の権威や力を示すとともに、邪悪なものを排除する力が込められていると推測できます。
しかもこの銅剣の製造時期は、これまでに全国の古墳などから出土した80本ほどの蛇行剣のなかで最古のものです。
盾形銅鏡に剣を重ねることで、鏡、盾、剣とトリプルで、被葬者を守ろうとしたということに。
発掘にあたった奈良市教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所によると、銅鏡、剣とも「これまで出土例がない古墳時代の金属工芸の最高傑作で、国宝級の大発見」とのこと。
被葬者はかなりの権力をもった人物だったことは明らかです。
被葬者は「ヤマト王権直属の豪族」、「ヤマト王権のライバル」?
奈良盆地に政権の基盤を置いていた初期のヤマト王権は、生駒山を越え、古代にあった河内湖の畔に世界文化遺産になった古市古墳群、百舌鳥古墳群の巨大古墳群を造営していきます。
日本最大の大仙陵古墳(百舌鳥古墳群)が築かれるのは5世紀前半ですから、ヤマト王権が瀬戸内海を睨んで、大阪湾・河内湖近くに進出する直前がまさに「空白の4世紀」ということになるのです。
これまでヤマト王権の大王は、巨大な前方後円墳を造営し、円墳はワンランク下の、支配下の豪族や関係者の墳墓と考えられてきました。
ところが、大王墓からも出土しない巨大な盾形銅鏡と剣で、「ヤマト王権直属の有力豪族」という被葬者像には疑問符も付くことに。
「王権とは距離を置き、敵対していた豪族の墓」と考える研究者もいて、この古墳の被葬者を解明することは、同時に「空白の4世紀」を埋める作業にもつながるというわけなのです。
ヤマト王権の権力が増大する4世紀、奈良盆地で築かれる古墳場所は南東部から北部に移動、古墳の規模も巨大化していますが、実はこの移動の理由も未解明で、「空白の4世紀」の解明は、邪馬台国がどこにあったのか、どのようにヤマト王権へと代わっていったのかなど、古代史の謎を解く上で、極めて重要な作業となっています。
日本最大の円墳(富雄丸山古墳)が「空白の4世紀」を埋める!? | |
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