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勝瑞城

勝瑞城

徳島県板野郡藍住町勝瑞にある中世の城郭が、勝瑞城(しょうずいじょう)。室町時代後半に阿波国守護・細川氏によって 守護所が置かれた地で、戦国時代に阿波国を掌握した三好氏の拠点。城下は中世の城下町として反映しました。勝瑞城の遺構は、国の史跡に指定されるほか、続日本100名城にも選定されています。

戦国時代に阿波国を掌握した三好氏の拠点

本丸と呼ばれる「勝瑞城跡」と本丸跡から南へ150mにある三好実休(みよしじっきゅう/1527年〜1562年)の居館跡と推測される遺構「勝瑞城館跡」が国の史跡に。
勝瑞城跡の一部は、三好氏の菩提寺で三好氏の歴代の墓が並ぶ見性寺(けんしょうじ)の境内になっていますが、周囲には濠が巡り、一部には土塁も残されています。  

三好実休は、兄の三好長慶(みよしながよし)が室町幕府の実権を掌握して畿内を支配した際、三好氏の本拠である阿波国のほか讃岐・河内などを治めて三好政権の一翼を担いました。
紀州の畠山高政が根来寺(ねごろじ)などの勢力と連合して河内・和泉への進出を図り、三好氏と対立し、永禄5年3月5日(1562年4月8日)、久米田の戦い(くめだのたたかい=現・大阪府岸和田市での戦闘)で討ち死にしています。

本能寺の変直後の天正10年(1582年)に土佐国(高知県)の長宗我部元親の阿波国攻略で、勝瑞城を本陣として十河存保(そごうまさやす=三好実休の次男、本能寺の変で織田信長が死去して後ろ盾を失う)が防戦(中富川の戦い)、ついに城を放棄し、落城しています。
天正13年(1585年)、十河存保は羽柴秀吉の四国征伐に参加し、仙石氏の与力大名として大名に復帰しますが、阿波国の領有、三好本宗家の継承も否認され、勝瑞城は廃城になっています。

城域では今も発掘調査が行なわれ、徐々にその姿が明らかになってきました。
城館は、勝瑞城館跡を中心に直径300mの範囲と推定され、枯山水庭園、池泉庭園の跡なども見つかっています。
また、見性寺境内には阿波三好氏の盛衰が漢文で書き連ねられている「勝瑞義家塚碑」(しょうずいぎちょうひ)が立っています。

見性寺境内の「勝瑞義家塚碑」
勝瑞城
名称 勝瑞城/しょうずいじょう
所在地 徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地176・267-1
関連HP 勝瑞遺跡デジタル博物館公式ホームページ
電車・バスで JR勝瑞駅から徒歩10分
ドライブで 徳島自動車道藍住ICから約5km。高知自動車道板野ICから約7km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 藍住町教育委員会守護町勝瑞遺跡調査事務所 TEL:088-641-3466
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

見性寺

徳島県板野郡藍住町にある臨済宗妙心寺派の寺が、見性寺(けんしょうじ)。戦国時代に阿波国(現在の徳島県)を統治した三好氏の菩提寺で、三好氏歴代の墓があります。境内の一部は勝瑞城跡(しょうずいじょうあと)として国の史跡の指定されるほか、続日本百

徳島県三大名城とは!?

徳島県は藩政時代には淡路島(現・兵庫県)まで徳島藩の領有で、藩庁の徳島城は日本100名城に選定。戦国時代に阿波国を掌握した三好氏の拠点だった勝瑞城(しょうずいじょう)、阿波国一宮・一宮神社背後の山城、一宮城が続日本100名城で、以上の3城が

 

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