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興禅寺・興禅寺庭園

興禅寺は鳥取歴代藩主の菩提寺として創建された黄檗(おうばく)宗の寺(創建時は臨済宗妙心寺派の寺)。1632(寛永9)年、鳥取藩の藩祖である池田光仲(いけだみつなか)が岡山から転封になった際、伯父で初代岡山藩主・池田忠継の菩提寺を鳥取に移したことに始まる名刹です。

江戸時代には黄檗宗の三大叢林として繁栄

創建当初は池田忠継の院号・龍峯院殿から広徳山龍峯寺と称していました。興禅寺と称するのは池田光仲没後に黄檗宗改宗後で、興禅院殿という光仲の院号によるもの。
江戸時代には鳥取藩主池田家庇護のもと、仙台藩伊達家の大年寺(仙台市太白区門前町)、長州藩毛利家の東光寺(山口県萩市椿東)と並んで黄檗宗の三大叢林(そうりん=道場)として繁栄しました。
明治になって鳥取藩の庇護を失い、明治21年に当時の本堂を龍雲寺(兵庫県美方郡新温泉町浜坂)に売却しています。現存する本堂は、もとの御霊屋(おたまや)を改造して本堂としたもの。
池田家の菩提寺ではあるのですが、歴代藩主の墓所はここにはなく、現・鳥取市国府町奥谷に墓所が造営されています。

池泉鑑賞式庭園(ちせんかんしょうしきていえん=書院などの建物に座って眺める池泉庭園の形式)は、江戸時代初期の築庭。池泉観賞式の武家書院造りで、築山の前に細長い池を配し、池には緩やかな曲線の太鼓橋が架かっています。狩野派の大和絵の意匠を具現化したといわれる優美な庭園で、裏山には「鍵屋の辻の決闘」(伊賀越の仇討ち)の主人公・渡辺数馬の墓もあります。

数馬の姉婿が郡山藩剣術指南役・荒木又右衛門。渡辺数馬は池田家の臣下だったが岡山から鳥取への転封の際に、主君・池田忠雄の無念を晴らすために脱藩。本懐を遂げた後には旧主・鳥取藩の預かりになっていたのです。

紅葉の名所としても有名で、11月下旬の見頃の時期には例年、ライトアップも実施。

渡辺数馬と「鍵屋の辻の決闘」
岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓・渡辺源太夫に藩士・藩士・河合又五郎が横恋慕。渡辺源太夫はこれを拒絶したため、又五郎は源太夫を殺害し、脱藩して江戸へ逃走し、旗本・安藤次右衛門に匿(かくま)われます。こうして岡山藩主・池田忠雄と旗本・安藤次右衛門のメンツをかけた争いに発展。池田忠雄が疱瘡のため急死しますが、死を前に又五郎を討つように遺言。忠雄の子・池田光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国(いなばのくに)鳥取へ国替えとなりますが、渡辺数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩。郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼し、伊賀国上野の鍵屋の辻(現・三重県伊賀市小田町)で本懐をとげるというもの。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つに数えられています。その渡辺数馬の墓(下の写真)が興禅寺にあるので、時代劇ファンなら必見です。


興禅寺・興禅寺庭園
名称 興禅寺・興禅寺庭園/こうぜんじ・こうぜんじていえん
所在地 鳥取県鳥取市栗谷町10
関連HP 鳥取市観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスで JR鳥取駅から日本交通バス雲山日交行きで8分、県庁日赤前下車、徒歩10分
ドライブで 鳥取自動車道鳥取ICから約7km
駐車場 5台/無料
問い合わせ 興禅寺 TEL:0857-22-5278/FAX:0857-22-5278
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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