倉吉の旧市街地にある曹洞宗の名刹で、1605(慶長10)年の創建。滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のモデルともなった里見忠義の終焉の地としても知られる寺で、境内には里見忠義と『南総里見八犬伝』のモデルといわれる家臣の墓があります。本尊は釈迦牟尼佛。
『南総里見八犬伝』ゆかりの寺が、なぜ倉吉に!?
江戸に近い安房の国を支配した里見家ですが、大坂攻めを前に外様大名(とざまだいみょう)への警戒心を強めた徳川家康の命により伯耆(ほうき)の国、倉吉藩3万石(実際には4000石)に改易され、倉吉の神坂町(現在の東町あたり)の屋敷で失意のうちに29歳の若さで亡くなっりました。
安房での里見家の菩提寺が曹洞宗であったという縁から、常光寺の河原で火葬され曹洞宗の大岳院に墓が造られたのです。
倉吉には8年間在住し、その折りに寄進したと伝えられる「三彩稜花刻花文盤(さんさいりょうかこっかもんばん)」が今も寺に秘蔵されています。
忠義が死去した時、8人の側近が殉死し、忠義とともに大岳院に葬られ「八賢士」と讃えられました。これが、曲亭馬琴(滝沢馬琴)の大長編読本『南総里見八犬伝』の「八犬士」のモデルなのだとか(馬琴が言明するものではなく、後世の推測です)。
安房の里見の旧臣が漁師姿に身をやつして倉吉に出向き、蛸壺に分骨して持ち帰り、埋葬したものが館山市・城山公園の「八遺臣の墓」と伝えられています。
関金温泉で、9月第1日曜に開催される『倉吉里見時代行列』では、大岳院で里見忠義と八賢士の法要が行なわれ、同日に開催の『せきがね里見まつり』で、倉吉市関金町堀地区にある主従の廟前で、里見忠義主従の鎮魂のための神事(関係者のみ参列)が執り行なわれます。
里見忠義(さとみただよし)
安房館山藩初代藩主・里見義康(さとみよしやす)の長男。1606(慶長11)年、2代将軍・徳川秀忠の面前で元服。徳川秀忠より偏諱(へんき=功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字を与えること)を受け、忠義と名乗り、館山藩2代藩主を務め、老中大久保忠隣の孫娘を室として迎えています。大久保忠隣の失脚事件に連座させられ、伯耆倉吉藩に転封。さらに1617(元和3)年、因幡鳥取藩主・池田光政によりその倉吉藩もとりあげられ、百人扶持の知行となります。失意のうちに元和8年6月19日(1622年7月27日)に病死。嗣子がないとされ、大名家としての里見氏は滅亡。
安房館山藩初代藩主・里見義康(さとみよしやす)の長男。1606(慶長11)年、2代将軍・徳川秀忠の面前で元服。徳川秀忠より偏諱(へんき=功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字を与えること)を受け、忠義と名乗り、館山藩2代藩主を務め、老中大久保忠隣の孫娘を室として迎えています。大久保忠隣の失脚事件に連座させられ、伯耆倉吉藩に転封。さらに1617(元和3)年、因幡鳥取藩主・池田光政によりその倉吉藩もとりあげられ、百人扶持の知行となります。失意のうちに元和8年6月19日(1622年7月27日)に病死。嗣子がないとされ、大名家としての里見氏は滅亡。
大岳院 | |
名称 | 大岳院/だいがくいん |
所在地 | 鳥取県倉吉市東町422 |
関連HP | 大岳院公式ホームページ |
電車・バスで | JR倉吉駅から日本交通バス関金温泉行きで10分、境町下車、すぐ |
ドライブで | 米子自動車道湯原ICから約38km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 大岳院 TEL:0858-22-4541/FAX:0858-22-5735 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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