富山県富山市、神通川河口に位置する岩瀬は、北前船の重要な寄港地として繁栄した港町。加賀藩の御蔵が置かれ、廻船問屋が軒を並べた岩瀬は、北陸街道の宿場町としても発展しました。東岩瀬は、北前船全盛期の明治6年の大火で往時の町並みを焼失。現存する家並みは、その後の再建のものです。
「バイ船」(北前船)で繁栄した町並みが現存
江戸中期以降、西回り航路の発達につれて日本海は交易の中心となり、岩瀬は蝦夷地(北海道)や東北からの荷で賑わいを見せました。
富山では北前船のことを「バイ船」と呼びますが、本州からは米や藁(わら)などを運び、蝦夷地(北海道)からは昆布、鰊肥(身欠ニシンを乾燥させ肥料にしたもの)、数の子などを運びました。
つまりバイ船とは往復で儲かるから倍になることに由来した名前なのです。
富山平野の農村に北海道から運ばれた鰊肥を供給し、美味しい越中米を生んだのも岩瀬の港があったからこそ。
蝦夷地の昆布は、琉球(沖縄)を経て中国と取引され、岩瀬には中国から漢方薬の原料が入荷し、売薬産業を支えました。
現存する廻船問屋の家並みは、当時「バイ船」(北前船)で蓄えた財を生かして贅沢な建物を建てたのです。
廻船問屋は、「岩瀬の五大家」と呼ばれた馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家があり、資料館として公開されるのが「北前船廻船問屋森家」(国の重要文化財)です。
森家の隣に並んで建つのは東岩瀬最大の廻船問屋だった馬場家(国の登録有形文化財「旧馬場家住宅」)。
馬場家は、蒸気船による近代海運業への移行にも成功し、中央の海運会社にまで発展しています。
現在の主屋は、隆盛の基礎を築いた7代目・馬場久兵衛(道久と改名)が明治6年の大火後に以前の部材を用いて、大改修したもの(平成26年に富山市へ建物が寄附されています)。
その独特な建築方法は「東岩瀬廻船問屋型家屋」と呼ばれるものです。
さらに大正2年に大隈重信が立ち寄った米田家では明治期の板塀が復元されています。
宮城家の主屋と土蔵は、枡田酒造店の物販施設に再生。
ちなみに芭蕉は『奥の細道』で大垣に向かう途中、富山城下には入らず、東岩瀬から神通川を舟で渡っています。
「東岩瀬廻船問屋型家屋」とは!?
東岩瀬廻船問屋型家屋は、前庭を有する3列4段型の間取り。
玄関から建物背後の神通川沿いにある船付場まで 京町家風の「トオリニワ」と呼ばれる土間廊下が通じているのが最大の特徴です。
「北前船回船問屋森家」はその典型で、最盛期の廻船問屋森家の財力を表現したもので、見学すればどっしりと重厚な東岩瀬廻船問屋型家屋の特徴がよく分かります。
「北前船廻船問屋森家」(国の重要文化財)、国の登録有形文化財「旧馬場家住宅」などは、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落」の構成資産になっています(全国の北前船寄港地で構成される広域な日本遺産)。
名称 | 東岩瀬の町並み/ひがしいわせのまちなみ |
所在地 | 富山県富山市東岩瀬町岩瀬大町 |
電車・バスで | 富山地方鉄道富山港線東岩瀬駅から徒歩10分 |
ドライブで | 北陸自動車道富山ICから約12km |
駐車場 | 岩瀬カナル会館駐車場(75台)を利用 |
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