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布橋

布橋

宿坊が並び立山信仰の拠点として栄えた富山県立山町芦峅寺地区。立山信仰において、この芦峅寺から奥は聖域(江戸時代、立山は山中に地獄や浄土があるあの世の世界と考えられていました)で、姥堂川が聖域と俗世を分ける境に。つまり姥堂川に架る布橋は、聖域への入口、立山登拝道の入口として機能していました。

立山信仰ではここから先が聖域

神仏習合時代(明治初年の神仏分離、廃仏毀釈以前)、立山は女人禁制だったため、布橋では秋の彼岸に、女人往生のための儀式である『布橋灌頂会』が齋行されていました。

江戸時代、立山信仰の講組織を中心となって支えていたのは、江戸では大名の家臣や旗本、中流商人たちでした。
芦峅寺の宿坊では、女性の信徒に対しては、越中立山が女人往生の霊場であることを強調し、血の池地獄からの救済と極楽往生の願いをかなえる『布橋灌頂会』の儀式への結縁(けちえん)を積極的に喧伝(けんでん)したのです。
血の池地獄での苦難を逃れ、多くの女性信徒は救済を切望し、『布橋灌頂会』に参加しました。
『布橋灌頂会』の際に橋に白布が敷し渡されることが布橋の名の由来です。
『布橋灌頂会』で女性信者は、布橋に敷かれた白布の上を目隠しで渡り、悪人は橋から谷川へ転落するといわれていました。

芦峅寺では生活道路の橋で、姥堂御宝前の橋などと呼ばれていました。
橋の長さ25間は二十五菩薩、高さ13間は十三仏、桁の数48本は阿弥陀如来の四十八願、敷板の数108枚は煩悩の数、欄干の擬宝珠の数6個は六地蔵、釘数3万8008本は法華経の文字数と同じで、仏教思想を反映しています(明治の神仏分離、廃仏毀釈で雄山神社になっていますが、それ以前は仏教思想が中心的なものでした)。

一帯は「立山博物館」が開館したことにあわせ、集落まるごと博物館構想により、平成7年に「立山曼荼羅(まんだら)の里」として整備。
復元された布橋の東には『布橋灌頂会』の始まりに、女性信者たちが閻魔大王に罪を懺悔した閻魔堂も建っています。
布橋からは晴れていれば正面に立山三山を眺望。

高野山奥の院の御廟川に架かる御廟橋(無明橋)、日光・大谷川の神橋とともに日本三霊橋のひとつ。

名称 布橋/ぬのばし
所在地 富山県中新川郡立山町芦峅寺
電車・バスで 富山地方鉄道有峰口駅から徒歩40分
ドライブで 北陸自動車道流杉スマートICから約19km
駐車場 善道坊横の駐車場、立山博物館展示館横の駐車場などを利用
問い合わせ 立山町観光協会 TEL:076-462-1001
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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芦峅寺閻魔堂

富山県立山町、立山登拝道の入口、芦峅寺(あしくらじ)の姥堂川に架かる布橋は、聖域と俗世の境とされてきた橋。その布橋の東(俗世側)にある閻魔堂(えんまどう)は、立山が女人禁制だった時代に、秋の彼岸に齋行される『布橋灌頂会』(ぬのばしかんじょう

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