世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産になっている高野山。空海が最初に堂宇を建立し、堂が帯同曼荼羅のように配された壇上伽藍(だんじょうがらん)。根本大塔、西塔、東塔がそびえていますが、平安時代の大治2年(1127年)、白河上皇の寄進で京・醍醐寺三宝院の勝覚権僧正(かくごんのそうじょう)が建立したのが東塔です。
平安時代半ばに白河上皇の寄進で創建
創建した勝覚は、醍醐寺座主。
往時には院政を敷いた白河上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世明王(ごうさんぜみょうおう)の二体が脇侍(きょうじ)として祀られていました。
降三世明王は真言密教の五大明王の一尊で金剛界の東側を守護する明王。
不動明王が中心に位置し、東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西に大威徳明王(だいいとくみょうおう)、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)を配するのが真言密教の教えです。
降三世明王の「三世」とは仏教における3つの強欲を示す三毒の貪(とん=貪欲/どんよく)、瞋(じん=怒り)、癡(ち=無知)のこと。
つまり、降三世明王は、過去・未来・現在においての「三毒」を統べる明王というわけなのです。
東塔は、天保14年(1843年)に焼失した後、礎石を残すのみで長らく再建されませんでしたが、「弘法大師御入定1150年御遠忌」の記念事業として昭和59年に再建されています。
平安時代に再興された高野山
平安時代半ば、「この世をば わが世とぞ思ふ」と栄華を誇った藤原道長・頼通親子ですが、治安3年(1023年)、藤原道長が、永承3年(1048年)には藤原頼通が高野山に登って復興に力を貸しています。
空海が開き、ここで没したことから、藤原氏全盛の時代から、空海は肉身のままで永遠の宗教的瞑想(めいそう)に入り、常に生きとし生けるものすべての救済を続けているという弘法大師入定信仰(こうぼうだいしにゅうじょうしんこう)が起こります。
高野山浄土の信仰が貴族の間に広まると、熊野詣(くまのもうで)とともに高野山参詣が隆盛し、院政で知られる白河上皇は寛治2年(1088年)2月、寛治5年(1091年)2月、康和5年(1103年)11月の3回にわたって御幸。
さらに、天治元年(1124年)10月に鳥羽上皇、大治2年(1127年)11月には白河上皇、鳥羽上皇の両上皇の御幸があって、高野山は霊場としての地位を確立するのです。
同時に天皇家や皇族、貴族たちの寺領荘園の寄進、堂塔建立の援助が行なわれ、高野山、そして空海の教学が再興されたのです。
空海が開き、ここで没したことから、藤原氏全盛の時代から、空海は肉身のままで永遠の宗教的瞑想(めいそう)に入り、常に生きとし生けるものすべての救済を続けているという弘法大師入定信仰(こうぼうだいしにゅうじょうしんこう)が起こります。
高野山浄土の信仰が貴族の間に広まると、熊野詣(くまのもうで)とともに高野山参詣が隆盛し、院政で知られる白河上皇は寛治2年(1088年)2月、寛治5年(1091年)2月、康和5年(1103年)11月の3回にわたって御幸。
さらに、天治元年(1124年)10月に鳥羽上皇、大治2年(1127年)11月には白河上皇、鳥羽上皇の両上皇の御幸があって、高野山は霊場としての地位を確立するのです。
同時に天皇家や皇族、貴族たちの寺領荘園の寄進、堂塔建立の援助が行なわれ、高野山、そして空海の教学が再興されたのです。
高野山 壇上伽藍・東塔 | |
名称 | 高野山 壇上伽藍・東塔/こうやさん だんじょうがらん・とうとう |
所在地 | 和歌山県伊都郡高野町高野山152 |
関連HP | 金剛峯寺公式ホームページ |
電車・バスで | 南海高野線高野山駅から南海りんかんバス奥の院前行きで11分、千手院橋下車 |
ドライブで | 京奈和自動車道紀北かつらぎICから約23km |
駐車場 | 中門前駐車場(18台/無料)・霊宝館前駐車場(18台/無料)・金剛峯寺第2駐車場(72台/無料)・金剛峯寺前駐車場(39台/無料) |
問い合わせ | 金剛峯寺 TEL:0736-56-2011/FAX:0736-56-4640 |
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