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真田庵・真田昌幸墓所

真田庵・真田昌幸墓所

和歌山県伊都郡九度山町、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子の屋敷跡に建てられた寺という真田庵(善名称院)の境内にあるのが真田昌幸墓所。真田幸昌は関ヶ原合戦後、長男の真田信繁(真田幸村)とともに九度山に幽閉され、この地で没しています。

真田昌幸終焉の地と伝承される地にある五輪塔

真田昌幸は、関ヶ原の合戦の際、西軍に与して、上田城に籠城し、主戦部隊の徳川秀忠軍を足止めにしています(徳川秀忠は関ヶ原合戦に間に合わず、中山道木曽路・妻籠宿で戦勝の報告を受けています)。
徳川家康から真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子には上田領没収と死罪が申し渡されますが、東軍に属した長男・真田信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山・蓮華定院(精進料理が味わえる宿坊として現存)に蟄居となりました。
真田昌幸の正室は上田に残りますが、次男である真田信繁(真田幸村)とその妻子、重臣16人は高野山に。
高野山の坊が手狭だったのか、あるいは女人禁制ということで真田信繁の妻が帯同できなかったためか(冬の寒さが厳しかったからとも)、紀州藩の許しを得て山麓の九度山に屋敷を構えます。
九度山で赦免運動をしますが、許しを得ることができず、慶長16年6月4日(1611年7月13日)に病没。

蟄居していた屋敷があったのが真田庵(善名称院)で、寺は屋敷跡に建てたれたと伝えられることから、境内にある五輪塔が、伝・真田昌幸墓所ということに。

真田昌幸の公式の墓所は、上田市の長谷寺(ちょうこくじ)、そして松代の松代藩真田家の菩提寺、長国寺(ちょうこくじ)となっています。

九度山町には、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)・真田大助の真田3代を紹介する「九度山・真田ミュージアム」も建っているので、あわせて見学を。

真田庵・真田昌幸墓所
名称 真田庵・真田昌幸墓所/さなだあん(さなだまさゆきぼしょ)
所在地 和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
関連HP 九度山町公式ホームページ
電車・バスで 南海高野線九度山駅から徒歩15分
ドライブで 阪和自動車道和歌山ICから約38km
駐車場 なし
問い合わせ 真田庵(善名称院) TEL:0736-54-2218
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

真田庵(善名称院)

和歌山県伊都郡九度山町(くどやまちょう)、高野山北麓、九度山にある高野山真言宗の寺、善名称院(ぜんみょうしょういん)。真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子の屋敷跡に建立された寺で、真田庵と通称されています。本尊は地蔵菩薩で、牡丹(ぼたん)の名

真田の抜け穴(真田古墳)

和歌山県伊都郡九度山町、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子の屋敷跡に建てられた寺という真田庵(善名称院)の東180mに「真田の抜け穴」と伝承される岩窟がありますが、昭和28年の発掘調査で横穴式石室を持つ円墳であることが判明、これが真田古墳で

九度山・真田ミュージアム

和歌山県伊都郡九度山町にある真田昌幸・真田信繁(真田幸村)・真田大助の真田3代を紹介する歴史博物館が、九度山・真田ミュージアム。九度山は関ヶ原合戦後、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)が蟄居させられた場所で、真田一族の苦難の歴史を紹介しています

 

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