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河口浅間神社

河口浅間神社

河口湖北岸の旧鎌倉街道の要衝、富士河口湖町の河口集落(かわぐちしゅうらく)にある浅間神社(せんげんじんじゃ)が河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)。富士山の火山活動が鎮まるのを祈願して、貞観7年(865年)に創建されたと伝わる浅間神社でも屈指の古社で、世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のひとつ。

河口湖北岸の古社、河口浅間神社は世界遺産にも登録

拝殿
天然記念物の「七本杉」
本殿(右)と拝殿

創建の前年の貞観6年(864年)、貞観大噴火が起こり巨大な湖だった剗の海(せのうみ)が埋まり、青木ヶ原の大樹海や西湖と精進湖が生まれています。
そのため駿河国浅間名神(現 富士山本宮浅間大社)だけではだめだということで、甲斐国側に噴火を鎮めるための祈願、祈祷(江戸時代までは神仏習合)の場所が築かれたのだと推測できます。

祭神は浅間大神(あさまおおかみ)、つまりは木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。

中世に河口集落は富士登山の御師(おし=富士講の信徒を相手に祈祷や宿泊の世話、ガイドをする人)が暮らす御師集落として発展していましたがその中核となったのが河口浅間神社です。

現存する社殿は、慶長12年(1607年)、徳川家康の家臣で甲斐国郡内領主・鳥居成次(とりいなりつぐ)の再建。
社殿周辺にそびえる「七本杉」は、樹齢1200年という古木。
三つ峠山中の母の白滝は、禊(みそぎ)の場で、河口浅間神社の社地。

拝殿前の美麗石(ヒイラ石)は、平安時代編纂の『日本三代実録』(9世紀の歴史書)に記された社殿創建前に築かれた、富士山を鎮める古代祭祀跡とされています。

河口浅間神社から30分ほど山道を歩いた(車道もありますが狭隘区間があり走行に注意が必要)母ノ白滝は、富士講における禊(みそぎ)の場。
富士山登拝を前にして、穢(けがれ)を払い身を清めるため、滝に打たれたのです。
母ノ白滝への途中には、富士山遥拝所(天空の鳥居)もあり、富士山を遥拝する絶景スポットとして注目度が高まっています。

境外社として母の白滝神社、河口湖の産屋ヶ崎(うぶやがさき)に産屋ヶ崎神社があります。
産屋ヶ崎に祀られるのは、木花開耶姫命の子・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、その妃である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)。

彦火火出見尊と豊玉姫命は産屋ヶ崎に茅で産屋をつくり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせず のみこと)を産んだと伝えられています。
例大祭は毎年4月25日に行なわれ、木花開耶姫命の御子神夫婦を祀る産屋ヶ崎神社への神幸があります。
木花開耶姫命が生まれた彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊見舞うという体裁のため『孫見祭』(まごみさい)とも呼ばれています。

随神門
美麗石(ヒイラ石)
鳥居成次と富士講・浅間神社
鳥居成次は、下総矢作藩の藩祖となった鳥居元忠の子。鳥居家は三河国碧海郡(愛知県岡崎市渡町)の出で、三河時代からの家康の家臣です。
甲斐東部の郡内領2万石は、武田家滅亡後に父・鳥居元忠が領有していたこともあり、浅野氏重に代わって鳥居成次が谷村城に在城して郡内地方を治めました。
慶長17年(1612年)には御室浅間神社本殿も建築しています。
元和2年(1616年)には北口本宮富士浅間神社本殿の造営も実施。
鳥居成次が郡内を治めた江戸時代初期は、富士信仰の隆盛の時代で、それを背景に吉田(現・富士吉田市)や河口集落は御師の町として発展していました。
河口浅間神社
名称 河口浅間神社/かわぐちあさまじんじゃ
所在地 山梨県南都留郡富士河口湖町河口1
関連HP 河口浅間神社公式ホームページ
ドライブで 中央自動車道河口湖ICから約7km
駐車場 40台/無料
問い合わせ 河口浅間神社 TEL:0555-76-7186
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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