日本三大仇討ちは、有名な『忠臣蔵』の元禄赤穂事件、鎌倉時代、富士の裾野で行なわれた巻狩りの最中の曾我兄弟の仇討ち、そして岡山藩士が友人の藩士を殺傷したことに起因した、伊賀上野での鍵屋の辻の決闘です。元禄赤穂事件については主君の仇を打つことが仇討ちといえるのか、江戸時代でも意見が分かれた事件です。
元禄赤穂事件
仇討ちの日時:元禄15年12月14日(1703年1月30日)
仇討ちの場所:吉良邸(現・東京都墨田区両国3-13 本所松坂町公園)
仇討ちの内容:赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入り
因縁:元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城松之大廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかるという前代未聞の事件が発生(事件の背景、「遺恨」については諸説あり定かでありませんが、吉良上野介義央は三河・吉良では名君として知られています)
結果:浅野内匠頭長矩は切腹、赤穂藩はお取り潰しが決まり、吉良上野介義央はお咎めなしになったため、浪人となった赤穂藩士(赤穂浪士)に不満がつのり、ついに吉良邸襲撃を計画
異論:「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族のための復讐であることから、主君の仇を討ったのは義にあたるのかということが、儒学者の間でも論争に
曾我兄弟の仇討ち
仇討ちの日時:建久4年5月28日(1193年6月28日)
仇討ちの場所:駿河国富士野(現・静岡県富士宮市)
仇討ちの内容:源頼朝が富士山山麓で行なった軍事演習「富士の巻狩り」の際、曾我十郎祐成・曾我五郎時致の曾我兄弟が、父親の仇・工藤祐経(くどうすけつね)の寝所に夜襲をかけ、討ち取った事件
因縁:工藤祐経は、源頼朝の寵臣ですが、曾我兄弟とは伊豆・伊東と河津という近接で親戚関係
曾我兄弟の父・河津祐泰(かわづすけやす=父・伊東祐親から河津荘を相続し河津氏を名乗る)が、親族の工藤祐経(伊東荘を相続)から祐経上洛中に伊東荘を奪うなどし、さらに工藤祐経に嫁がせていた娘の万劫御前も離婚させたことから、工藤祐経から恨みをかっていました
伊豆の狩り場で狩猟中の伊東祐親・河津祐泰を襲撃、伊東祐親は矢を逃れたものの、河津祐泰には当たって絶命、こうして父の仇という関係が生まれました
結果:兄の曾我十郎祐成は仇討ちの際に絶命、弟の曾我時致は仇討ちは果たしますが梟首となっています
取り調べの際、源頼朝の前でも曾我五郎時致が堂々とした振る舞いだったこと、仇討であったことから、曾我荘の年貢を免除し、曾我兄弟の菩提を弔うように命じています
暗殺された工藤祐経は、巻狩りの際に陣所のあったとされる地に、墓が建立されています
異論:仇討ちの際の御家人側の死傷者の多さ(鎌倉時代の歴史書(『吾妻鏡』では祐経以外に10人の御家人の名が記されています))から、北条時政による源頼朝暗殺計画説、その逆に頼朝側の御家人粛清説など政治的陰謀説もあります(結果として北条時政が豆駿遠3国の支配権を確立)
鍵屋の辻の決闘
仇討ちの日時:寛永11年11月7日(1634年12月26日)
仇討ちの場所:伊賀国上野・鍵屋の辻(現・三重県伊賀市小田町)
仇討ちの内容:渡辺数馬と荒木又右衛門が、荒木又右衛門の助太刀を受け、仇・河合又五郎(備前岡山藩士)を追跡し、ついに伊賀国・鍵屋の辻(現・三重県伊賀市小田町)で決闘に
因縁:備前岡山藩士(藩主は池田忠雄)河合又五郎が友人の岡山藩士・渡辺源太夫を斬ったことが発端
河合又五郎は江戸に逃れ、旗本の家に匿われていたことから、岡山藩主・池田忠雄は、幕府に訴え出て、河合又五郎の引き渡しを迫り、大名家と旗本の対立という構図にまで発展(直後に岡山藩主・池田忠雄は急死)
渡辺源太夫の兄である渡辺数馬は、弟の敵(かたき)ということで浪人となって渡辺源太夫を追跡
郡山藩剣術指南役・荒木又右衛門は渡辺数馬の姉婿(姉の夫)、しかも伊賀上野の出身で、伊賀国には土地勘がありました
結果:渡辺数馬ら一行4人は、伊賀上野城下の入口、鍵屋の辻で、河合又五郎一行11人を襲撃、河合又五郎を討ち取ります
異論:歌舞伎、講談や映画などでは「荒木又右衛門の36人斬り」として描かれていますが、実は誇張です
日本三大仇討ちとは!? | |
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