愛知県名古屋市守山区竜泉寺にある天台宗の寺、龍泉寺。笠寺観音、荒子観音、甚目寺観音と並び名古屋城の鬼門を守る尾張四観音のひとつ。寺伝によれば延暦年間(782年~806年)、最澄(伝教大師)が創建したと伝わる古刹で、空海伝説も伝わる名刹で、本尊は馬頭観音です。
最澄(伝教大師)が創建したと伝わる古刹
寺伝によれば、延暦年間、最澄(伝教大師)が熱田神宮(当時は熱田神社)参籠中(当時は神仏習合)に龍神のお告げを受け、多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現、それを祀って創建したと伝えられています。
円福寺にも桓武天皇の勅命で最澄(伝教大師)が熱田神宮境内において100日間法華経を読誦したと伝わり、宝暦2年(1752年)編纂の『尾張府志』には、熱田神社の神宮寺は、聖武天皇の時代に創建されたと記されていることから、最澄らが参籠した可能性は大いにあります。
空海(弘法大師)も、熱田神宮参籠中、熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納したと伝わり、そのため龍泉寺が熱田神宮の奥の院とされているのです。
庄内川を望む高台という要害の地に建つため、戦国時代には陣が敷かれることが多く、弘治2年(1556年)、織田信行(おだのぶゆき=織田信勝とも、織田信長の同母弟ですが、『信長公記』には岩倉城の織田信安に通じて謀反を起こすと記されています)が砦(竜泉寺城)を築いています。
織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)の際には信長が部隊を派遣し、清洲城の防衛に備えている場所です。
小牧長久手の合戦の際には、小幡城に陣を構えた徳川家康に対峙する羽柴秀吉軍が陣を張り、退却の際に火が放たれて堂宇を焼失(家康は小牧山本陣へ引き上げ、実戦はありません)。
戦国末に再興していますが明治39年の火事で再び焼失し、現存する建物はその後の再建。
本尊の厄除けの馬頭観音は、熱田神宮の奥の院として建立されたものと伝わります。
名古屋城を中心に「歳徳神(としとくじん)=1年の福徳を司る神」のいる方角を恵方(えほう=5年周期・4方位)と呼び、「尾張四観音」のうち、その方向にあたる寺はご利益が大きいとされていますが、龍泉寺(「甲」の方角=およそ東北東)は令和6年・令和11年が恵方にあたります。
重要文化財の木造地蔵菩薩立像や円空一刀彫、千体仏(円空作)などを収蔵する宝物館は、竜泉寺城をイメージした3層の天守風建物(模擬天守ですが、砦時代には天守はありませんでした)。
火災から焼け残った慶長12年(1607年)建立の仁王門は国の重要文化財。
天井裏から発見された板札に慶長12年と記されていますが、高針村(名古屋市名東区)から移したと伝えられており、室町時代のものを慶長12年に移築した可能性も残されています。
龍泉寺境内、宝物館東の竹藪に「太閤堀」(一夜堀)と呼ばれる空濠がありますが(「豊公一夜堀」石碑)、これが羽柴秀吉が一夜にして構築したという濠の跡なのだとか。
あくまでも伝承ですが、龍泉寺城唯一ともいえる貴重な遺構になっています。
尾張三十三観音霊場(昭和30年開創)25番で、「東海百観音」(尾張三十三観音霊場、三河三十三観音霊場、美濃三十三観音霊場、豊川稲荷)のひとつ。
龍泉寺 | |
名称 | 龍泉寺/りゅうせんじ |
所在地 | 愛知県名古屋市守山区竜泉寺1-902 |
関連HP | 龍泉寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR・名鉄・地下鉄大曽根駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東名阪自動車道小幡ICから約1.8km、または、松河戸ICから約2.7km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 龍泉寺 TEL:052-794-3647 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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