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足助城

足助城

愛知県豊田市足助町、有名な紅葉の名所・香嵐渓(こうらんけい)の東に位置する山城が、足助城(あすけじょう/真弓山城)。足助町制施行100周年を記念して、平成5年に城跡公園足助城として整備され、真弓山(標高307m)の山上に中世の高櫓、長屋、物見矢倉、厨(くりや)などが復元されています。

中世の山城を素材を含めて忠実に復元

足助城のある真弓山には登山道も整備されていますが、足助中学の脇から車道も山頂近くまで通じているので、汗をかかずに、中世の山城の雰囲気に浸ることができます(大型バスの通行はできません)。
復元された建物はいずれも発掘調査結果に基づくもので、山城の歴史的な復元としては全国初の試みとなっています。
竹の釘や麻縄など当時と同じ用材を使うという凝った復元で、中世の城に模擬天守などという陳腐な城跡公園に比べても、実に充実した内容です。

鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」のひとつという伝承もありますが、発掘調査ではその遺構が見つかっておらず(出土遺物は、15世紀後半から16世紀後半のものが主体)、復元した建物は、室町時代(15世紀後半以降)に、鈴木氏が築城した城です。

全体的に掘立柱建物が中心で、16世紀前半以降は、生活空間的な役割も加わったことがわかっています。
曲輪間の連絡道の取り付け方などから、防御に重きを置いた城館だったと推測されています。


足助の鈴木氏は、鈴木忠親、鈴木重政、鈴木重直、鈴木信重、鈴木康重と5代続き、戦国時代には岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返していますが、永禄7年(1564年)、松平元康(徳川家康)に攻略され、三河統一後は家康の配下となり、高天神城の戦いなどでも武勲を挙げています。
大永5年(1525年)、2代・鈴木重政が松平清康(徳川家康の祖父)に攻められ、松平氏の傘下に入ったのが、足助城の史料上の初見。

元亀2年(1571年)、武田信玄の三河侵攻の際には、武田氏に城を明け渡していますが、その後、松平信康(家康の長男)が奪還するなど、武田氏との対峙する前線にもなっていました。
対松平、対武田という城を守る必要性から、防御に力点を置いた造りになったのでしょう。

鈴木康重が城主となった天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封で廃城に。
鈴木康重も家康にに従って、足助城を去り、関東に移っていますが、その後浪人となったと伝えられています。

足助城
名称 足助城/あすけじょう
所在地 豊田市足助町須沢39-2
関連HP 足助城公式ホームページ
電車・バスで 名鉄名古屋本線東岡崎駅から名鉄バス足助行きで1時間9分、香嵐渓下車。豊田市駅からの名鉄バスも利用可能
ドライブで 猿投グリーンロード力石ICから約10km。伊勢湾岸自動車道豊田藤岡IC、豊田勘八ICも利用可
駐車場 50台/有料
問い合わせ 足助城 TEL:0565-62-0770
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

足助の町並み(豊田市足助伝統的建造物群保存地区)

愛知県豊田市足助町(あすけちょう)は、三河で産する塩を信州に運んだ、塩の道・中馬街道の宿場町として栄えた地。また、美濃とも結ばれ、交易の拠点として繁栄したのです。江戸時代以来の重厚な町家を多く残し、その町並みは、豊田市足助伝統的建造物群保存

三州足助屋敷

紅葉の名所、愛知県豊田市足助の香嵐渓にある施設が三州足助屋敷(さんしゅうあすけやしき)。山里の手仕事を子孫に伝えようというコンセプトで昭和55年に開館。足助の豪農を再現した屋敷内には、わら細工、機織り、桶作り、番傘作り、紙漉き、炭焼き、鍛冶

香嵐渓

東海地区を代表する紅葉の名所が愛知県豊田市の香嵐渓(こうらんけい)。矢作川(やはぎがわ)の支流、巴川(ともえがわ)と足助川(あすけがわ)が合流する待月橋(たいげつきょう)から上流1.5kmのエリアで、川の両岸から飯盛山山頂にわたって、約40

香積寺

東海を代表する紅葉の名所・香嵐渓(こうらんけい)は、香積寺の「香」と、渓谷に発する嵐気の「嵐」をとって、昭和5年に付けられた地名。香積寺(こうじゃくじ)は、室町時代の応永34年(1427年)、滅亡した足助氏の菩提を弔うために、飯盛山中腹の豪

市場城

愛知県豊田市市場町、「小原和紙のふるさと小原和紙美術館」の南にある中世の城館跡が、市場城(いちばじょう)。標高380mの山上に築かれた山城で、室町時代から戦国時代にかけて、鈴木氏4代の居城跡。現存する遺構は、天正11年(1583年)、鈴木重

 

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