青森県弘前市(ひろさきし)西茂森、弘前城の南西、裏鬼門を守護する曹洞宗寺院33ヶ寺の寺町が、禅林街(禅林三十三ヶ寺)。慶長15年(1610年)、弘前藩2代藩主・津軽信枚(つがるのぶひら)が弘前城築城に際して、城の鬼門を守るため津軽一円から曹洞宗の寺(禅寺)を城下に集めた寺町が現存。
2代藩主・津軽信枚が防御機能をも有する寺町を造成
種里(現・西津軽郡鯵ヶ沢町)から津軽家の菩提寺である長勝寺を移転(最奥に配置)。
上寺(うわでら)通りの突き当りに位置する長勝寺を中心に33の曹洞宗寺院(禅寺)が集まっています。
長勝寺を正面にして、入口に黒門が建つ上寺通りに面している寺が20ヶ寺(長勝寺、泉光院、海蔵寺、宝積院、照源寺、清安寺、長徳寺、蘭庭院、宝泉院、陽光院、隣松寺、京徳寺、鳳松院、寿昌院、勝岳院、嶺松院、高徳院、福寿院、万蔵寺、梅林寺)。
また、入口に赤門がある下寺(したでら)通りに12ヶ寺(宗徳寺、藤先寺、永泉寺、正伝寺、安盛寺、天津院、常源寺、恵林寺、盛雲院、川竜院、正光寺、月峰院)が配されており、高台の普門院とあわせて33ヶ寺となっているため「禅林三十三ヶ寺」と称されています。
こうした寺町を形成したのは、曹洞宗による宗教文化の統一、そして城の防御の強化という利点があったと推測されています。
それ以外の浄土宗などの寺は、新寺町と呼ばれる場所に建っています。
同じ宗派によって造られた寺院街は全国的にも珍しく、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)として国の史跡に指定(新寺町の新寺構も国の史跡)。
最奥の長勝寺三門(国の重要文化財)からまっすぐ伸びた参道の両側に杉と寺が並ぶ光景は趣も深く、夜はライトアップされ、さらに幻想的な雰囲気に満ちあふれます。
城下町と禅林街の境には土塁が築かれ、さらに西側には堀、北側は断崖、東側は低湿地帯となっているので、事実上はいざという際の出城的な機能も有していました。
この出城的な寺町の形成は、弘前藩が北辺警備の要衝という理由もあったのだと推測され、幕府も大城郭築城を許したのです。
禅林街が築かれた当時、弘前はまだ鷹岡(高岡)と呼ばれていた時代で、寛永5年(1628年)、徳川三代に仕える天海大僧正が天台密教での破邪の法から名付けた弘前に改名、藩名も弘前藩となっています。
弘前が「みちのくの古都」といわれるのもこの寺町があるから。
城下町を探訪する際には寺町の文化的、政治的役割にも思いを馳せてみましょう。
ちなみに弘前藩内の禅宗寺院は曹洞宗のみで、後に黄檗宗(おうばくしゅう)が加わりましたが、臨済宗の寺はありませんでした。
禅林街を築いた津軽信枚ですが、曹洞宗寺院を集める3年前の慶長12年(1607年)、天海に弟子入りし、天台宗に改宗(領内にいくつかの天台宗の寺院を建立、津軽家の菩提寺も天台宗・報恩寺に)、さらに慶長18年(1613年)、天海のすすめで徳川家康の養女・満天姫(再嫁で、前夫は福島正之)と婚姻し(実父は石田三成という正室の辰姫を側室に)、幕府との関係を強めているので、幕府との関係性には並々ならぬ配慮があったことがわかります。
禅林街(禅林三十三ヶ寺) | |
名称 | 禅林街(禅林三十三ヶ寺)/ぜんりんがい(ぜんりんさんじゅうさんかじ) |
所在地 | 青森県弘前市西茂森 |
関連HP | 弘前観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR弘前駅から弘南バス四中校行きで20分、茂森町長勝寺入口下車、徒歩5分 |
ドライブで | 東北自動車道大鰐弘前ICから約12km |
駐車場 | 長勝寺駐車場(15台/無料)を利用 |
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