石白川海水浴場
東京都新島村、式根島の南岸にあるビーチが石白川海水浴場(いしじろがわかいすいよくじょう)。江戸時代は無人島だった式根島は、明治になって島に入植する際、最初に築かれたまいまいず井戸を中心に集落が発展しました。そのまいまいず…
東京都新島村、式根島の南岸にあるビーチが石白川海水浴場(いしじろがわかいすいよくじょう)。江戸時代は無人島だった式根島は、明治になって島に入植する際、最初に築かれたまいまいず井戸を中心に集落が発展しました。そのまいまいず…
東京都新島村、式根島西岸、リアス式海岸の美しい入江を利用したビーチが中の浦海水浴場。神引展望台下のカンビキ浦(神引湾)と北の大浦海水浴場に挟まれた、まさに中の浦で、入江の奥にもサンゴが生育し、透明度大の美しいビーチです。
東京都世田谷区にある都立公園が蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん)。明治から大正期にかけて活躍した文豪、徳冨盧花(とくとみろか)。武蔵野の自然を愛し、彼が妻・愛子とともに晩年を過ごした旧宅を中心に庭園を整備・保存、昭和13年…
東京都墨田区にある都立公園が向島百花園(むこうじまひゃっかえん)。江戸の町民文化が栄えた文化文政期、骨董商・佐原鞠塢(さわらきくう)が日本橋住吉町の店を閉め、文人たちの協力を得て、文化元年(1804年)に開園した庭園がル…
東京都世田谷区にある浄土宗の寺、九品仏浄真寺(くほんぶつじょうしんじ)。正式名は九品山唯在念佛院浄真寺ですが、上品堂、中品堂、下品堂の3堂が並び、それぞれに3体ずつ阿弥陀如来像が納められているので、九品仏と呼ばれ、それが…
東京都葛飾区にある区立公園が堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)。江戸時代の浮世絵師・歌川広重の『名所江戸百景』にも「堀切の花菖蒲」(ほりきりのはなしょうぶ)として描かれた、花菖蒲の名所のひとつで、昭和34年に都立公園とし…
東京都新島村、羽伏浦海岸にある新島スポーツ広場は、ビーチバレーコート、テニスコート、キャンプ場が整備された公園ですが、その一角に、新島特産のコーガ石(抗火石)を加工したオブジェが並ぶ石の動物園があります。観光的には無名な…
東京都新島村、式根島にある唯一の建物・内湯のある共同浴場が式根島温泉憩の家。もともと火山島である式根島には、かつての式根島火山のあった南東部(唐人津城あたりが火山の中心)にナトリウム-塩化物強塩泉の温泉が湧いていますが、…
東京都新島村、東京都道237号式根島循環線の南端、式根島港にある露天風呂が松が下雅湯(まつがしたみやびゆ)。「内科の湯」地鉈温泉の泉質を気軽に楽しめるようにとつくられた露天風呂で、鉄分を多く含んだ茶褐色の湯が特徴です。…
東京都新島村、新島の黒根海岸・三郎浜、新島港(新島港船客待合所)近くに建つのが光と風と波の塔。間々下浦にある湯の浜露天風呂がギリシアの神殿風なのに対し、こちらは、ヨーロッパの城郭の遺跡のような雰囲気ですが、新島特産のコー…
東京都新島村、新島と式根島を結ぶ新島村営の高速船が連絡船にしき。新島の新島港(黒根港)と式根島・野伏港を20分で結んでいます。新島側は、B堤漁協前の連絡船にしき待合所で、式根島では野伏港奥に建つ式根島観光協会で乗船券を発…
東京都新島村、式根島の玄関港となるのが、式根島の北東に位置する野伏港(のぶしこう)。東京都が管理する港で、野伏港船客待合所が整備されています。東海汽船の「さるびあ丸」、ジェット船、下田港発の神新汽船「フェリーあぜりあ」の…
東京都新島村、新島の西海岸にある新島の玄関口となる新島港(前浜・黒根港)にあるのが新島港船客待合所。東海汽船の「さるびあ丸」、ジェット船、下田港発の神新汽船「フェリーあぜりあ」も入港します。新島港船客待合所には、新島観光…
東京都新島村、新島の本村にある村営のミュージアムが新島村博物館。新島村と式根島の自然、歴史、文化を解説しています。常設展示は、新島・式根島の自然、新島・式根島の歴史、島の文化、島民の暮らしの4コーナーです。茅葺き古民家、…
東京都新島村、式根島の足付温泉と地鉈温泉の間を隔てた岩山が足地山(66.8m)。そのてっぺんに築かれた展望台が足地山展望台です。足付の足、地鉈の地を1字づつとった地名で、足付温泉と地鉈温泉を結ぶ歩道途中からも南へ展望台へ…
東京都新島村、式根島の東部、北に新島、南に三宅島や御蔵島(みくらじま)を眺める展望地が、ぐんじ山展望台。式根島の島民がこの眺望を見出し、ボランティアによって整備された場所。野伏港から徒歩で30分ほどかかりますが、レン…
東京都新島村、新島西海岸、間々下浦の高台に建つのが新島ガラスアートセンター。新島ガラスの製品は、特産のコーガ石(抗火石)を原料の一部に利用して制作。コーガ石(抗火石)を原料としたガラスは、独特のオリーブ色を帯びるのが特徴…
東京都新島村、日蓮宗の寺、長栄寺の北、新島共同墓地の一角、共同墓地よりも一段低くなった場所にあるのが流人墓地。寛文8年(1668年)〜明治4年の間、新島には1333名の流刑囚が流され、新島で655名が病没しています(赦免…