明治20年代に山縣有朋(やまがたありとも)らによる本土要塞化の一環で、東京湾の要塞化が図られました。最初に築かれたのが、富津岬の根元の砲台(富津元洲堡塁砲台)と、富津岬沖(約1kmほど沖)の第一海堡(だいいちかいほ/だいいちかいほう)です。
江戸時代に、富津岬沖に砲台設置が提唱されていた!
近世(17世紀以前)以前には江戸湾防備の拠点として機能した富津岬周辺。
古墳時代には、現在の富津市上飯野に日本武尊(やまとたけるのみことが)が上陸したという伝承があります。
さらに天文9年〜天文13年(1540年〜1544年)には、北条水軍が侵攻したりもしています。
世界遺産に登録された韮山反射炉建設でも知られる韮山(にらやま)代官・江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん/1801年~1855年)は、天保10年(1839年)に鳥居耀蔵(とりいようぞう)とともに、江戸湾を視察。
観音崎~富津岬を結ぶ線を最重要な防御線とし、江戸湾防備のために観音崎・走水などに台場砲台を設けるほか、富津岬の海中に台場を建設することを提案しています。
天保8年に幕府は異国船打払令を制定し、伊豆・相模沿岸から江戸湾までの防衛は韮山代官所が担当していたのです。
「東京湾要塞建設論」で、真っ先に第一海堡を構築!
明治に入り、富国強兵の最中、東京湾防備の要塞として真っ先に建造されたのが第一海堡です。
明治11年7月30日、陸軍参謀局内に海岸防御取調委員が設置され、その委員となった工兵大尉・西田明則(にしだあきのり)は、「東京湾要塞建設論」を山縣有朋宛に提出しています。東京湾口の防備には、大砲の射程の関係上、富津岬~横須賀の海中に3個の海堡(海上砲台)を築造することを提案しています。
こうして、第一海堡は明治14年8月起工、明治23年12月に完成したのです。
当初、来襲を想定したのはロシアではなく清国の艦隊
同時に東京湾の要塞化がスタートします。
当時、東京湾防衛の対象となったのは清国(中国)の艦隊である北洋水師(北洋艦隊)。
威海衛(いかいえい=現在の中華人民共和国山東省威海市)、旅順港を基地として東アジアに睨みをきかせていました。
明治27年に始まった日清戦争では、この清国・北洋水師(北洋艦隊)は、大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊滅しています。
万一、日清戦争で敗れることがあったならば、東京湾に北洋水師(北洋艦隊)が押し寄せ・・・・、と明治政府のトップは危惧したのです。
第一海堡は、第二次大戦後、連合国軍により要塞無力化が行なわれた際に、中央部が破却されています。
現在では東京湾の航路安全のための灯台が設置されていますが、一般の立入は禁止されています。
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