毎年8月15日・16日に兵庫県丹波篠山市(たんばささやまし)で開催されるのが、『丹波篠山デカンショ祭』。 江戸時代から歌い継ぐ民謡「デカンショ節」の総踊りをメインにした民謡の祭典ですが、そもそも「デカンショ」っていったいどんな意味があるのでしょう?
「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」の略!?
1955年に刊行された『篠山町七十五年史』には、ズバリ、「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」の略と記されています。
現在流布されている歌詞のなかには、「デカンショ唄えば ポリスが怒る、怒るポリスの子が唄う」、「ポリス ポリスと威張るなポリス、ポリス日本の恥さらし」、さらには少しお下劣な「 汽車の窓から チンチン出して、車掌見てくれ 汽車ちんよ」などという歌詞もあるので、明治中頃に東京の学生の間で「学生歌」として流布し、一躍全国区の歌になったことは明らかです。
1980年に刊行の『篠山町百年史』には、「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言し、同じ篠山町の町史でも、編纂者によって大きく意見が異なっています。
実は、デカンショ節は、江戸時代から歌われていた丹波篠山地方の盆踊り唄『みつ節』の変形したもので、それが本来のデカンショ節。
そして明治時代以降に、東京に出た鳳鳴出身者(明治9年「篠山中年学舎」開校、明治17年「鳳鳴義塾」、明治32年「私立尋常中学鳳鳴義塾」、現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)が流布させた明治以降の世相を入れ込んだデカンショ節の2パターンがあるのです。
後者は、「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」の略と説明されても、なるほどなという感じですがこれはあくまで後付けの学生歌バージョンでのこじつけ。
丹波篠山市は、日本遺産「丹波篠山デカンショ節-民謡に乗せて歌い継ぐふるさとの記憶-」を文化庁に登録していますが、「囃子言葉の『デカンショ』の語源は『ドッコイショ』が転訛したものなど諸説あるが定かではない」とし、江戸時代から歌われていた盆踊り唄「みつ節」がルーツとしています。
明治時代に、篠山藩主や多くの家老たちは、東京に居を移し、デカンショ節の筆頭に歌われる「丹波篠山山家の猿が花のお江戸で芝居する♪」はこの頃のことを歌い込んだものだと推測できるのです。
歌詞も膨大にあり、今や300番にも上る「デカンショ節」です。
全国に知られる民謡デカンショ節の歌詞を統一しようと、1998年「デカンショ節100年記念事業実行委員会」は、代表的な歌詞10を選抜しています。
画像協力/兵庫丹波観光ネットワーク推進委員会
デカンショ節 歌詞10選
- 丹波篠山山家の猿が(ヨイヨイ)
花のお江戸で芝居する(ヨオーイ ヨオーイ デカンショ) - デカンショデカンショで半年暮らす
あとの半年寝て暮らす - 丹波篠山鳳鳴の塾で
文武鍛えし美少年 - 丹波篠山山奥なれど
霧の降るときゃ海の底 - 酒は飲め飲め茶釜でわかせ
お神酒(みき)あがらぬ神はない - 灘の銘酒(おさけ)はどなたがつくる
おらが自慢の丹波杜氏(たんばとじ) - 盆のお月さん丸こて丸い
丸てまんまるこてまだ丸い - わたしゃ丹波の勝栗(かちぐり)育ち
中に甘味も渋もある - 雪がちらちら丹波の宿に
猪(しし)が飛び込む牡丹鍋(ぼたんなべ) - デカンショデカンショと唄うて廻れ
世界いずこの果てまでも
『篠山町七十五年史』記載の「デカンショ」の由来
「デカンショ」という囃の根拠は「出稼しよう」で酒屋出稼から生まれたものだとか、或いは又、東都に学ぶ鳳鳴出身の学生たちが、デカルト、カント、ショペンハーウエル等の哲学者の名の頭文字を取ったものであるとか云われているが、明治中頃の事、青山忠允と房州の海水浴場で之を唄って鳳鳴健児が気焔を挙げていたのを、隣接の東京第一高等学校の生徒寮の学生に伝わり次々と東都の学生間に愛唱されるに至ったともいうから、当時生まれたデカンショの唄の歌詞と、学生が之によって気焔を挙げていた事実と併せ考えれば、囃の根拠はむしろ後者にあると考えられる。
いずれにしてもそれは昔からあったみつ節を其のまま座興で囃をシャレて作りかえたまでの事で、其の発祥はずっと古い昔にある事には間違いない。結局其のシャレた囃に時代的な魅力があり、人口に膾炙された訳である。
歌詞も当時学生であった当町出身元東京高等師範学校教授亘理章三郎の作が多いといわれている。
『篠山町百年史』記載の「デカンショ」の由来
さて、”デカンショ”の語源については多くの説がある。
△古くからの盆踊り唄にある「ドッコイショ」の変化で、「デッコンショ」-「デカンショ」
△青山藩士たちがよく飲みあかし、唄い明かした事例がそのままに「徹今宵」―「テッコンショ」-「デカンショ」
△郷土出身者の「天下将」たらんとする心意気がそのまま「テンカノショウ」-「デカンショ」
△学生たちが、有名な三人の哲学者「デカルト」「カント」「ショウベンハウエル」の頭文字をもじったという「デカンショ」
△昔から丹波杜氏の出稼は有名で「出稼しょう」-「デカンショ」
△その他方言「デゴザンショ」やら、あるいは大きなこと「デッカイコト」しよう。
等々その根拠らしく、いろいろ伝えられていてなかなか巧妙である。
その語源がいずれにせよ「デカンショ」の語義そのものには特別には意味はなく、例えば炭坑節「サノヨイヨイ」や安来節の「エッサッサ」と同じ掛け声に相当するもので、「ヨイヨイ」や「ヨーオイ、ヨーオイデッカンショ」もハヤシ言葉にすぎず、ことさらに意味を持ち、また持たせる必要もないであろう。
東京在住の高田彰(篠山出身・鉄道員勤務=明治43、4年に「丹波戦史波多野盛衰記」発行・著書)が、明治44年に「デッコンショウ節」の歌詞を募集している。そして大正4年斉藤秀三(立町)がはじめて「デカンショ節」を編輯されている。したがって大正の極く初期には、「デカンショ」という文字にすべて定着したと見るべきであろう。
デカンショ節の「デカンショ」って何!? | |
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