【意外に知らない】 特急は、「欧亜連絡列車」の夢を載せて誕生!

国内を走る特別急行列車(特急/Limited Express)の誕生は、明治45年6月15日、新橋〜下関を走った「1列車」と「2列車」。実はこの特急、敷設が進むシベリア鉄道経由でヨーロッパを結ぶ、「欧亜連絡列車」の夢を載せて誕生したもので、背景にはヨーロッパやロシア(革命前)との国際協調があったのです。

下関駅では関釜連絡船に接続、釜山で京釜線に連絡

「欧亜連絡列車」は、東京からヨーロッパ(パリ、ロンドン)へと至る国際連絡運輸のためのもので(シベリア横断鉄道は大正5年に全通)、一等車と二等車でのみ構成され、洋食専門の食堂車、最後尾には一等展望車を連結するという豪華な仕様。
庶民の乗る三等車がなかったことからも、上流階級の移動手段だったことがよくわかります。
乗車にあたっては特別急行券が必要で、「日本で初の特急券発売」ということに。
しかも山陽本線(山陽鉄道が国有化)では、初の有料速達列車で、新橋〜下関を上り25時間8分、下り25時間15分という長旅で結んでいました。
丹那トンネルの完成で東海道本線が熱海経由になったのは昭和9年12月1日のことなので、当時の東海道線は御殿場回り(現在の御殿場線)で、当然、SLが客車を牽引していました。

明治政府は、ロシア(革命後はソ連)、ヨーロッパ諸国と国際連絡輸送の協定を締結。
日本〜パリ・ロンドンは、2週間ほどの行程で結ばれ、太平洋航路〜北米横断鉄道〜大西洋航路ルートの1ヶ月弱、スエズ運河経由の1ヶ月半に比べて大幅な短縮が実現したのです。
洋食専門の食堂車を連結していたことからも、利用者の多くは欧米人だったことがわかります。

この列車がなぜ「欧亜連絡列車」だったのかといえば、下関で関釜連絡船(かんふれんらくせん)に連絡していたから。
下関駅は山陽鉄道の延伸で、明治34年5月27日、馬関駅(ばかんえき)として開業(明治35年に下関駅に改称)。
関釜連絡船は、下関駅の開業を受け、山陽鉄道傘下の山陽汽船が明治38年、鉄道連絡船として運航を開始したもので、明治39年9月1日、山陽鉄道の国有化で鉄道院の運航となっていました。
第二次世界大戦までは、朝鮮半島、満洲国、中華民国そしてヨーロッパに至る国際連絡運輸の一部として機能していたのです。

朝鮮半島では釜山(プサン/日本的な呼び名は「ふさん」)とソウルを結ぶ京釜線(きょうふせん)が明治38年1月1日に全通、日本列島と朝鮮半島の大動脈が、関釜連絡船(鉄道連絡船)で結ばれたのです。
釜山経由のルートで戦前は、釜山〜新京(当時の満洲国、現在の長春)〜ハルビン〜チタ(明治33年にシベリア鉄道が開通)という経路で、チタからシベリア鉄道経由でユーラシア大陸を横断して、ヨーロッパ入りしていました。

下関港としては、明治8年、上海定期航路の寄港地として開港地に指定された国際貿易港。
そして大正2年、世界一周、東半球一周周遊券の発売を開始。
まさに大陸への玄関口で、東京からの特急列車は「欧亜連絡」の夢と期待を載せて走ったのです。

欧亜連絡列車というと、東京〜敦賀を結んだボート・トレインが有名ですが、こちらはシベリア横断鉄道開通後のメインルートで、それ以前はこの下関ルートが欧亜連絡列車の中心駅役割を担っていました。

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