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杉原千畝記念館

杉原千畝記念館

岐阜県加茂郡八百津町にある「日本のシンドラー」と呼ばれた杉原千畝(すぎはらちうね)の記念館が杉原千畝記念館。杉原千畝は、第二次世界大戦中、リトアニア(当時リトアニア最大の都市カウナス、ソ連占領後、ドイツ軍が侵攻)の日本領事代理を勤め、ユダヤ難民へのビザ発給により、数千人もの命を救っています。

「日本のシンドラー」杉原千畝を顕彰する記念館

杉原千畝の生誕地といわれる、岐阜県八百津町の高台に建つ記念館。
記念館の建つ一帯は「人道の丘」として整備され八百津の街が一望できます。
昭和15年、リトアニア(カウナス)の日本領事代理時代に、ナチスの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ナチスの過酷な迫害を逃れヨーロッパから脱出するために、日本への通過ビザを求め(日本経由でアメリカ、パレスチナなどに脱出)、領事館前に押しかけました。
ナチスの迫害を逃れたい、ユダヤ人にとって杉原千畝の発給するビザはまさに唯一の命の保証でもあったのです。

本国・日本の外務省にビザの発給許可を求めると答えは、正規の手続きを踏まないものには発給不可。
杉原千畝は迷ったあげく、外交官としての将来よりも人道を優先させ、ビザを発給します。
ユダヤ難民は、杉原千畝氏が発給した「命のビザ」を携え、リトアニアからウラジオストクを経て、日本海汽船(現・商船三井)「天草丸」で敦賀港に上陸しました(敦賀市には「人道の港 敦賀ムゼウム」があり、ユダヤ難民に関することを常設展示しています)。
これにより6000人の命が救われたのですが、戦後に日本に帰国した杉原を待ち受けていたものは、なんと外務省による責任追及と事実上の解職(日本国政府による公式の名誉回復が行なわれたのは、外務大臣・河野洋平により、平成12年10月10日の演説で)。

記念館では杉原千畝の生涯、業績を解説するだけでなく、ユダヤ人を救うことを決意した「決断の部屋」を再現しています。

杉原千畝は、昭和60年に日本人としては唯一の「諸国民の中の正義の人」(Righteous Among the Nations=ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅=ホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を讚える称号)としてイスラエル政府から表彰を受け、杉原千畝の業績が再認識されるようになったのです。

平成17年、よみうりテレビの終戦60年ドラマスペシャル『日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ』(主演・反町隆史)としてドラマ化もされ、さらに平成27年にはポーランドロケによる映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(監督・チェリン・グラック、主演・唐沢寿明)も公開され、話題を呼びました。

「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」、私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」という杉原千畝の残した言葉は、耳に残ります。

くすぶる、「杉原千畝」の故郷、生誕地

杉原千畝の父・好水(よしみ)は税務官吏で、千畝が生まれた時には、岐阜県武儀郡上有知町(こうずちちょう、現・美濃市)に勤務。
出生届は父の実家のある現・八百津町に届けていますが(そのため、八百津町は「生誕の地・八百津」としてPR)、実際に生まれたのは現在の美濃市ということに。

八百津町には杉原千畝実家跡、美濃市には杉原千畝生家跡がある(ともに案内板が立っています)という分かりづらい関係になっています。
杉原千畝は父の勤務の関係で、中津川、桑名と点々とし、名古屋古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)から旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に進むなど、多感な少年時代は名古屋市で過ごしていることから、ゆかりの地は、名古屋ともいえ、出身の名古屋市立平和小学校には「ちうねチャイム」、瑞陵高校に「杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル」も設置されています。

杉原千畝記念館
名称 杉原千畝記念館/すぎはらちうねきねんかん
所在地 岐阜県加茂郡八百津町八百津1071
関連HP 杉原千畝記念館公式ホームページ
電車・バスで 名鉄広見線明智駅から東鉄バス八百津町ファミリーセンター行きで35分、またはJR美濃太田駅からYAOバス八百津町ファミリーセンター行きで45分、終点下車、タクシーで8分
ドライブで 東海環状自動車道可児御嵩ICから約14km。または、中央自動車道土岐ICから約20km
駐車場 40台/無料
問い合わせ 杉原千畝記念館 TEL:0574-43-2111/FAX:0574-43-0969
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

人道の港 敦賀ムゼウム

福井県敦賀市金ケ崎町、敦賀港・金ヶ崎緑地に臨む地に建つヨーロッパへの玄関港として機能した敦賀港の歴史を紹介する博物館が人道の港 敦賀ムゼウム。ロシア革命後の1920年代のポーランド孤児、昭和15年〜昭和16年、杉原千畝(すぎはらちうね)発行

 

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