岐阜県岐阜市柳ヶ瀬2丁目、柳ヶ瀬商店街(柳ヶ瀬本通)のなかほど、岐阜柳ヶ瀬商店街振興組合連合会事務所近くの路面に配されているのが、『柳ヶ瀬ブルース』歌碑。昭和41年4月1日発売、美川憲一が歌って大ヒットした『柳ヶ瀬ブルース』(作詞・作曲:宇佐英雄)の歌碑です。
地元とタイアップしてPRしたご当地ソングのルーツ
岐阜市の歓楽街・柳ヶ瀬で、流しの歌手・宇佐英雄が歌っていたのが原曲の『柳ヶ瀬ブルース』。
日本クラウンのディレクター・長田幸治が、それまで青春歌謡(古賀政男の指導を受け、昭和40年、青春歌謡『だけどだけどだけど』でデビュー)だった美川憲一の路線転換の歌として採用したもので、日本クラウンは曲の舞台となった地元・柳ヶ瀬とタイアップ、取材ツアーも実施してPRしたことから、ご当地ソングのルーツともいわれています。
ご当地ソングという言葉は、「京都 大原 三千院♫」で知られるデューク・エイセスの『女ひとり』(作詞・永六輔、作曲・いずみたく)が前年の昭和40年8月に発売されているので、ルーツは『女ひとり』ともいえますが、新聞や雑誌記者を招聘しての取材会を実施など歌の舞台となった地とのタイアップなどは行なわれていないため、実際には『柳ヶ瀬ブルース』がご当地連携のルーツということに。
柳ヶ瀬商店街(柳ヶ瀬本通)には、岐阜市長の記した『柳ヶ瀬ブルース』発祥の地という文字も。
あまり知られていませんが、美川という芸名は、木曽川、揖斐川、長良川の3つの美しい川から由来。
美川憲一は長野県諏訪市の出身で、2歳で東京に出ているため岐阜には縁がありませんでしたが、デビュー時の担当者が岐阜出身で、「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という願いを込めて、木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)から美川としたのです。
当初、所属プロダクションの社長に、この歌は歌いたくないと伝えて、叱られたというエピソードがあるほど、「この曲を歌うのはすごく荷が重かった」(美川憲一)んだとか。
それでもキャンペーンでまだまだ無名の美川憲一は、タスキをかけて岐阜のレコード店を回り、みかん箱の上で『柳ヶ瀬ブルース』を必死で披露したのです。
ぶっきらぼうに歌っているイメージですが、それほど苦手だったということ。
それでも美川憲一3枚目となる『柳ヶ瀬ブルース』では紅白初出場には届かず、11枚目のシングル『釧路の夜』(昭和43年7月1日発売/『柳ヶ瀬ブルース』と同じ釧路出身の宇佐英雄が作詞・作曲を担当)で、その年の暮の『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場しています。
『柳ヶ瀬ブルース』、『新潟ブルース』(昭和42年8月10日発売)、『釧路の夜』(幣舞橋に歌碑が立っています)と3年連続でリリースされた美川憲一のご当地ソング。
苦手の『柳ヶ瀬ブルース』も「年齢を重ねて、歌詞の重さやスケール感など作品のよさに気付き、どんどん好きになられた」とのことで、『さそり座の女』(昭和47年12月20日)とともに、美川憲一の代表曲となっているのです。
『柳ヶ瀬ブルース』歌碑 | |
名称 | 『柳ヶ瀬ブルース』歌碑/『やながせぶるーす』かひ |
所在地 | 岐阜県岐阜市柳ケ瀬通2-24 |
関連HP | 岐阜観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | 名鉄岐阜駅から徒歩15分 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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