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高山社跡

高山社跡

群馬県藤岡市高山にある養蚕業の研究・教育機関の跡が高山社跡(たかやましゃあと)。世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産で、国の史跡。「養蚕改良高山社」の創始者・高山長五郎の生家で、明治6年に「養蚕改良高山組」を設立し、養蚕法「清温育」の研究と社員への指導をここで行なっていました。

近代養蚕法「清温育」を確立し、教育を実施

高山長五郎(たかやまちょうごろう)は、文政13年4月17日(1830年6月7日)、上野国緑野郡高山村(現・群馬県藤岡市高山)に生誕。
18歳で家督を継いだ長五郎は、幕末の安政2年(1855年)、本格的な養蚕に着手しますが(養蚕は信州上田で始まり、その後上州=群馬県、甲州=山梨県、武州=埼玉県へと伝搬しました)、当初は蚕病にかかって、何度も失敗し、ついに母屋を売って蚕室を建てていますが、それでも失敗しているのです。

文久元年(1861年)、火力で蚕室を暖める温暖育の手法を学んで、ようやく成功。
明治元年からは「高山流養蚕方」と称した指導を開始し、明治6年に「養蚕改良高山組」を設立。
明治17年に会社組織に改めて「養蚕改良高山社」の社長に就任(明治19年に没しています)。

手狭になったため、長五郎没後の明治20年には藤岡市に事務所と伝習所を移し、自宅は高山分教場として残しました。
「養蚕改良高山社」はその後も発展し、蚕業学校を開設して長五郎が編み出した「清温育」の普及に努め、全国から生徒の受け入れ、指導員の派遣をも行ない、養蚕業の発展に多大な成果を残しています。
指導員の派遣も国内に留まらず、中国、台湾、朝鮮半島にまで及び、これにより「清温育」は日本の近代養蚕法の標準となったのです。

「養蚕改良高山社」高山分教場の施設のうち、江戸時代末から明治時代前半に建てたと考えられる蚕室(母屋=養蚕用家屋)と桑貯蔵庫、長屋門、賄小屋などの付属屋が現存し、敷地全体が世界遺産の構成資産になっています。
解説員が常駐し、高山社や養蚕の歴史についての解説を実施。

母屋には瓦屋根の上に換気用の3基の櫓が築かれ、2階の蚕室の床下には、温度と換気の微調整を行なうための、火鉢が置かれていました。

「清温育」とは!?

「清温育」は、人工的に温度と湿度を管理した「温暖育」(火気を取り入れて蚕室を暖める)と、島村(現・伊勢崎市境島村)の田島弥平が確立した自然に任せた「清涼育」(火気の使用を最小限にとどめ、蚕室の風通しを重視)両方の長所を取り入れた「折衷育」(せっちゅういく)。

明治16年〜17年頃に高山長五郎は、この「清温育」を完成させています。
気温と換気を重視し、蚕の食べる桑の管理の仕方や、蚕の成長段階に応じた桑の与え方をマニュアル化したものです。
たとえば脱皮前(眠期の直前)は食欲が旺盛なため、給桑量を増やすと体力がつき、丈夫な蚕になるなどと、これまでの経験をマニュアル化し、明治時代に隆盛した全国の農家の蚕糸への取り組みをサポートしたのです。

画像協力/ググっとぐんま観光宣伝推進協議会

高山社跡
名称 高山社跡/たかやましゃあと
所在地 群馬県藤岡市高山237
関連HP 藤岡市公式ホームページ
電車・バスで JR高崎線新町駅から多野藤岡広域路線バス「かんながわ号」で35分、高山社跡下車。八高線群馬藤岡駅から市内循環バス「めぐるん」約35分、高山社跡下車
ドライブで 上信越自動車道藤岡ICから約10km
駐車場 市営駐車場を利用(高山社跡前の駐車場はハンデキャップを有する人専用)
問い合わせ 藤岡市教育委員会文化財保護課 TEL:0274-23-5997
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

田島弥平旧宅

伊勢崎市境島村地区は、江戸時代中期から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)製造の盛んな地域で、田島弥平は養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え「清涼育」を大成させました。近代養蚕農家の原型ともいわれる田島弥平旧宅は、世界文化遺産

荒船風穴

群馬県下仁田町にある世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産が荒船風穴(あらふねふうけつ)。明治38年に養蚕農家の庭屋静太郎が築いた蚕種貯蔵施設。岩の隙間から吹き出す天然の冷風を利用した蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設で、神津牧場への群馬

 

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