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縁切寺満徳寺遺跡公園

縁切寺満徳寺遺跡公園

群馬県太田市にある縁切寺満徳寺遺跡公園は、江戸時代に縁切寺として機能した満徳寺(廃寺)の境内一帯を遺跡公園としたもの。満徳寺は、鎌倉時代に世良田義季(せらだよしすえ/新田義重の四男で、家康が徳川家の祖としています)が開基、娘の浄念尼(じょうねんに)の開山した尼寺です。

家康の孫娘・千姫もここで秀頼と縁切り!

江戸時代、時宗の尼寺だった満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並んで幕府公認の「縁切り寺」として有名でした。
不法な夫から逃れる駆け込み寺で、寺に駆け込み入寺後25ヶ月間寺で生活すると夫に三くだり半(離縁状)を書くように請求でき、評定所一座(現在の最高裁判所大法廷)がそれを裁可するというシステム。
縁切寺は、世界的に特異な制度で知られる限りで日本にしかなく、国内でも2ヶ所だけ(ただし、男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったと推測できます)。

徳川家康の孫娘・千姫(せんひめ)は、豊臣秀頼に嫁いでいましたが、大坂夏の陣で大坂城から救出。
千姫の身代わりに俊澄上人(しゅんちょうしょうにん=満徳寺中興開山)が住職として満徳寺に入寺し(秀頼と縁を切ったかたちをつくり)、元和2年(1616年)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚しています。

得川郷(徳川郷)は、徳川家発祥の地!?

一帯は得川郷(徳川郷)という地名で、徳川家康(三河松平郷の出身=現在の愛知県豊田市松平町)は半ば強引に得川郷(徳川郷)を徳川氏の先祖・新田氏の故地、つまり徳川氏発祥の地としたのです。
そのため徳川幕府は、得川郷(徳川郷)に特別な庇護を与え、得川郷(徳川郷)の百姓は脇差を許され、大名行列に対する土下座も免除されていました。

満徳寺は、徳川家の位牌所としても機能しましたが、徳川幕府崩壊後の明治5年に、後ろ盾を失い廃寺に。
その後、地区の人々は堂宇を縮小・移築して集会所とし、満徳寺の本尊・位牌類を守り続けてきました。

現在、満徳寺境内一帯は縁切寺満徳寺遺跡公園として整備され、本堂、玄関、駆込門、中門、塀や庭が復元され、隣接して縁切寺満徳寺資科館が建っています。

縁切寺満徳寺遺跡公園
名称 縁切寺満徳寺遺跡公園/えんきりでらまんとくじいせきこうえん
所在地 群馬県太田市徳川町382-2
関連HP 太田市公式ホームページ
電車・バスで 東武世良田駅から徒歩30分。JR深谷駅からタクシーで20分
ドライブで 北関東自動車道伊勢崎ICから約15km、関越自動車道花園ICから約20km、東北自動車道館林ICから約29km
駐車場 30台/無料
問い合わせ 太田市立縁切寺満徳寺資料館 TEL:0276-52-2276
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

世良田東照宮

1639(寛永16)年、天海大僧正が3代将軍・徳川家光に要請し、世良田の長楽寺境内に日光東照宮奥社(元和年間に造営の多宝塔、唐門、拝殿)を移築して創建したのが世良田東照宮。本殿はその際に新築され、徳川家康(東照大権現)を祀っています。実は、

大光院

群馬県太田市金山城跡近くにある浄土宗の寺、大光院は、徳川家康が新田氏の祖・新田義重(源義家の孫)の菩提を弔って、江戸の芝・増上寺で修行した浄土宗の僧・呑龍(どんりゅう)上人を招き、慶長18年(1613年)に建立。徳川家康は、松平から徳川に改

東慶寺

花の寺としても親しまれる鎌倉にある臨済宗円覚寺派の名刹、東慶寺は、弘安8年(1285年)、北条時宗(ほうじょうときむね)の妻・覚山志道尼(かくざんしどうに)が開山。明治35年までは松ヶ岡御所と呼ばれ、男子禁制の格式高い尼寺でした。「駆込寺」

太田市立縁切寺満徳寺資料館

江戸時代、世界に2つしかなかったという女性の縁切寺(駆け込み寺)が、群馬県太田市の満徳寺と鎌倉の東慶寺。ともに徳川家ゆかりの尼寺で、満徳寺は、明治維新後、檀家がないために廃寺に。太田市立縁切寺満徳寺資料館は旧境内の一角に建ち、離縁状など縁切

 

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