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金倉の六地蔵

金倉の六地蔵

兵庫県佐用町平福、因幡街道随一の宿場町として栄えた平福宿。因幡街道と寄り沿うように流れる佐用川に架けられた、金倉橋の西側たもとは、江戸時代、平福藩の松原処刑場だった場所で、処刑人の追善供養のために建てられたと伝えられるのが、金倉の六地蔵です。

平福藩の松原処刑場跡地に立つ地蔵尊

宮本武蔵が決闘した頃には美しい松原が広がっていました

かつて美しい松並木があり、平福の松原と呼ばれていた地。
「南無阿弥陀仏」と刻まれた念仏碑が、元禄9年(1696年)に建てられたものであることから、この六地蔵も同時代に建てられたものと推測されています。

元文4年(1739年)、飢饉が原因での百姓一揆で、首謀者と目された正吉村の百姓・牛右衛門(義民牛右衛門)が捕縛されて一揆は未遂に終わりましたが、その牛右衛門が、元文5年(1740年)6月に処刑されたのも金倉橋たもとの松原処刑場です(当時の平福領主は松井松平家の旗本、松平康年)。

六地蔵建立の100年ほど前には、弱冠13歳の宮本武蔵が、金倉橋のたもとで初の決闘を行なったとされ、金倉の六地蔵の横には宮本武蔵決闘の場を表す『五輪書』の自序(序文)の一節を刻んだ石碑も立ち、宮本武蔵ファン注目の場所のひとつ。

金倉の六地蔵
名称 金倉の六地蔵/かなくらのろくじぞう
所在地 兵庫県佐用郡佐用町平福
電車・バスで 智頭急行平福駅から徒歩5分
ドライブで 中国自動車道佐用ICから約22kmで道の駅宿場町ひらふく
駐車場 道の駅宿場町ひらふく駐車場を利用
問い合わせ 佐用町商工観光課 TEL:0790-82-0670/FAX:0790-82-0492
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

利神城

兵庫県佐用郡佐用町平福にある国の史跡に指定される山城が、利神城(りかんじょう)。赤松一族の別所敦範が、南北朝時代の貞和5年・正平4年(1349年)、北方の守りとして利神山に築いた山城が起源。関ヶ原の合戦後に播磨国入りした池田由之(いけだよし

平福宿

兵庫県佐用郡佐用町、利神城(りかんじょう)の麓に位置し、因幡街道随一の賑わいをみせた宿場町が、平福宿(ひらふくしゅく)。慶長・元和年間(1596年〜1623年)の30年間ほどは利神城の城下町として、その後は宿場町として栄、さらに高瀬舟を使っ

平福本陣跡

兵庫県佐用郡佐用町平福、因幡街道の平福宿にあるかつて本陣跡が、平福本陣跡(ひらふくほんじんあと)。往時は700坪もの広大な敷地を誇っていましたが、現在は素戔嗚尊神社(すさのおのみことじんじゃ)の「お旅所」で、白壁の門や回廊式の塀が再現され、

宮本武蔵決闘の場

兵庫県佐用町平福、因幡街道随一の宿場町として栄えた平福宿・金倉橋のたもとが、宮本武蔵決闘の場。慶長元年(1596年)、弱冠13歳で人生最初の決闘を行なったのが、この金倉橋のたもとだとつたえられています。『五輪書』自序(序文)の一節が刻まれた

平福陣屋門

兵庫県佐用郡佐用町平福にある江戸時代の旗本陣屋の門が、平福陣屋門。山城の利神城(りかんじょう)廃城後、平福は松平氏5000石の旗本領で代官支配となりました。江戸時代、1万石以下の小藩の城を「陣屋」と呼び、その邸宅の入口に造った長屋門を「陣屋

 

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