平福陣屋門

平福陣屋門

兵庫県佐用郡佐用町平福にある江戸時代の旗本陣屋の門が、平福陣屋門。山城の利神城(りかんじょう)廃城後、平福は松平氏5000石の旗本領で代官支配となりました。江戸時代、1万石以下の小藩の城を「陣屋」と呼び、その邸宅の入口に造った長屋門を「陣屋門」と呼んでいます。

幕末の旗本陣屋の門が現存

国道373号沿い、道の駅「宿場町ひらふく」に隣接して建つ現在の陣屋門は、幕末の元治元年(1864年)再建のもの。
当時の代官・佐々木平八郎(ささきへいはちろう)が建てたものと伝わっています。

松平氏の藩政は、天保6年(1835年)に起こった出石藩の仙石騒動に連座して、天保7年(1836年)に平福を没収されて天領(幕府領)に。
文久3年(1863年)に許されて、旧領の半分となる2500石を戻されて、明治維新まで続きますが、その復領の際に建てた門が現在残される陣屋門です。

平福陣屋門
名称 平福陣屋門/ひらふくじんやもん
所在地 兵庫県佐用郡佐用町平福
電車・バスで 智頭急行平福駅から徒歩5分
ドライブで 中国自動車道佐用ICから約22kmで道の駅宿場町ひらふく
駐車場 道の駅宿場町ひらふく駐車場を利用
問い合わせ 佐用町商工観光課 TEL:0790-82-0670/FAX:0790-82-0492
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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