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宮本武蔵決闘の場

宮本武蔵決闘の場

兵庫県佐用町平福、因幡街道随一の宿場町として栄えた平福宿・金倉橋のたもとが、宮本武蔵決闘の場。慶長元年(1596年)、弱冠13歳で人生最初の決闘を行なったのが、この金倉橋のたもとだとつたえられています。『五輪書』自序(序文)の一節が刻まれた石碑が立っています。

武蔵無敗の伝説、ここに始まる

『丹治峯均筆記』(たんじほうきんひっき)によれば、新當流(戦国時代に塚原卜傳高幹が興した剣術)の使い手・有馬喜兵衛(ありまきへえ)は、金張りの高札(「何人なりとも望みしだいに手合せいたすべし。われこそ日下無双兵法者なる」)を立てて兵法者の挑戦を受けるため待機していましたが、試合を申し出た相手が、まだ子供とわかり戦意喪失。
だが当日現れた武蔵は、持参した長尺の棒で突如打ちかかり、あっという間に有馬喜兵衛は絶命したと伝えられています。

『五輪書』自序(序文)に「われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者にうち勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり」と記されておりので、13歳で有馬喜兵衛を倒したことは事実のようです。

宮本武蔵決闘の場の横には、金倉の六地蔵があり、江戸時代の平福藩刑場跡です。

宮本武蔵決闘の場
名称 宮本武蔵決闘の場/みやもとむさしけっとうのば
所在地 兵庫県佐用郡佐用町平福
電車・バスで 智頭急行平福駅から徒歩5分
ドライブで 中国自動車道佐用ICから約22kmで道の駅宿場町ひらふく
駐車場 道の駅宿場町ひらふく駐車場を利用
問い合わせ 佐用町商工観光課 TEL:0790-82-0670/FAX:0790-82-0492
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

利神城

兵庫県佐用郡佐用町平福にある国の史跡に指定される山城が、利神城(りかんじょう)。赤松一族の別所敦範が、南北朝時代の貞和5年・正平4年(1349年)、北方の守りとして利神山に築いた山城が起源。関ヶ原の合戦後に播磨国入りした池田由之(いけだよし

平福宿

兵庫県佐用郡佐用町、利神城(りかんじょう)の麓に位置し、因幡街道随一の賑わいをみせた宿場町が、平福宿(ひらふくしゅく)。慶長・元和年間(1596年〜1623年)の30年間ほどは利神城の城下町として、その後は宿場町として栄、さらに高瀬舟を使っ

平福本陣跡

兵庫県佐用郡佐用町平福、因幡街道の平福宿にあるかつて本陣跡が、平福本陣跡(ひらふくほんじんあと)。往時は700坪もの広大な敷地を誇っていましたが、現在は素戔嗚尊神社(すさのおのみことじんじゃ)の「お旅所」で、白壁の門や回廊式の塀が再現され、

金倉の六地蔵

兵庫県佐用町平福、因幡街道随一の宿場町として栄えた平福宿。因幡街道と寄り沿うように流れる佐用川に架けられた、金倉橋の西側たもとは、江戸時代、平福藩の松原処刑場だった場所で、処刑人の追善供養のために建てられたと伝えられるのが、金倉の六地蔵です

平福陣屋門

兵庫県佐用郡佐用町平福にある江戸時代の旗本陣屋の門が、平福陣屋門。山城の利神城(りかんじょう)廃城後、平福は松平氏5000石の旗本領で代官支配となりました。江戸時代、1万石以下の小藩の城を「陣屋」と呼び、その邸宅の入口に造った長屋門を「陣屋

 

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