サイトアイコン ニッポン旅マガジン

兵庫津柳原惣門跡

兵庫津柳原惣門跡

兵庫県神戸市兵庫区西柳原町、柳原蛭子神社(柳原えびす)の社前が、兵庫津柳原惣門跡。兵庫津の町の西の玄関口で、西国街道が屈曲する場所には惣門と呼ばれる門がありました。惣門は平時には兵庫津の玄関の装飾門となり、戦時となると町と外部を遮断する防衛拠点という役割を担っていました。

兵庫津の町にあった西国街道西側の玄関門が、柳原惣門

中世に平清盛が整備した大輪田泊は、戦国時代の末期に兵庫城の築城で、城下に組み込まれ、近世に兵庫津の町の周囲には、都賀堤(とがのつつみ)、そしてその外側に堀が巡らされ、防御機能を有していました。

西国街道が兵庫津に入る場所は防御上の弱点で、西と北の入口に惣門(惣構の門)を築いて、出入りを監視していたのです。
惣門には隣接して番所と高札場が置かれ、玄関口の機能を果たし、街道を鍵の手に屈曲させることで、兵庫津の内部を見せないという構造をも有していました。
西の玄関である柳原惣門を入った西国街道は、札場の辻北に折れ、町の北側にある湊口惣門を抜けて兵庫津の町を出ていました。
街道時代には惣門の外側には田畑や松の茂る原が広がるというのどかな光景でしたが、今ではとても想像ができません。

柳原惣門の設置された時代は定かでありませんが、天正8年(1580年)、村重討伐に功で兵庫津を得、兵庫城の築造した池田恒興(いけだつねおき=織田家重臣、)が、城の周囲に溝渠(こうきよ)、町の外郭に惣構(そうがまえ)の都賀堤を築いた際、関門として築いたのが始まりだと推測されています。

撤去の時期は、明治2年の『兵庫津細見全図』に柳原惣門は描かれていますが、明治14年の地図にはないので、明治8年の都賀堤削平の際に、堤とともに撤去されたのだと推測できます。
柳原惣門(高麗門)の遺構は現在の柳原蛭子神社の境内地で、発掘調査では「従是東尼崎領」の標石の一部が出土しています。

兵庫津柳原惣門跡
名称 兵庫津柳原惣門跡/ひょうごつやなぎはらそうもんあと
所在地 兵庫県神戸市兵庫区西柳原町5
関連HP 神戸市公式ホームページ
電車・バスで JR兵庫駅から徒歩6分
ドライブで 阪神高速道路3号神戸線柳原出口から約500m
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

柳原蛭子神社

兵庫県神戸市兵庫区西柳原町、「柳原のえべっさん」(柳原えびす)と通称される西国街道の柳原にある神社が、柳原蛭子神社。柳原は兵庫津の西端に位置し、兵庫津の西国街道の出入口として栄え、近世には柳原惣門が建っていた場所。1月9日~11日の『十日え

兵庫城・初代兵庫県庁跡

摂津国八部郡兵庫津、現在の兵庫県神戸市兵庫区中之島の兵庫津にあった戦国時代の城跡が兵庫城(ひょうごじょう)。謀反を起こし、小寺孝隆(黒田官兵衛)を有岡城に幽閉した荒木村重を攻略した功績で、池田恒興(いけだつねおき)が築城しています。兵庫城の

兵庫県立兵庫津ミュージアム・初代県庁館

兵庫県神戸市兵庫区中之島2丁目に令和3年11月3日にオープンした兵庫県のルーツを示す復元施設が、兵庫県立兵庫津ミュージアム・初代県庁館。『兵庫勤番所絵図』などの史料に基づいて時代考証を行ない、歴史空間を体感する施設として復元したミュージアム

兵庫津遺跡(古代大輪田泊跡)

兵庫県神戸市兵庫区中之島2丁目、現在、イオンモール神戸南が建つ一帯が、兵庫津遺跡(古代大輪田泊跡)。平成15年に兵庫津遺跡(ひょうごのついせき)で古代大輪田泊跡と推測される遺構が発掘され、古代から中世の瀬戸内海航路の港湾・兵庫津(現在の神戸

能福寺(兵庫大仏)

805(延暦24)年、最澄(伝教大師)が唐(中国)からの帰途、兵庫の和田岬に上陸。自刻の薬師如来像を安置し、能福護国密寺を開いたのが始まりという天台宗の古刹が能福寺。寺伝によれば日本で最初の密教の教化霊場ということに。平清盛の福原遷都で平家

清盛塚・琵琶塚

兵庫県神戸市兵庫区切戸町にある弘安9年(1286年)の年号が刻まれた高さ8.5mの十三重の塔が清盛塚(兵庫県の文化財)。石塔の隣に平清盛像と、平安貴族が愛用した楽器・琵琶(びわ)の名手・平経正(たいらのつねまさ)の琵琶塚が築かれています。地

福海寺

兵庫県神戸市兵庫区西柳原町、西国街道の柳原惣門跡・柳原蛭子神社の北に建つ臨済宗南禅寺派の寺が、福海寺(ふくかいじ)。正式名は福海興国禅寺で、康永3年(1344年)、足利尊氏が兵庫津(兵庫城)に創建、足利義満など歴代の足利将軍の尊崇を受けたと

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了