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智恵子の杜公園

福島県二本松市、高村智恵子の生家裏手、鞍石山周辺に造られた公園が智恵子の杜公園。「あれが阿多多羅山(あたたらやま)、あの光るのが阿武隈川( あぶくまがわ)」と、高村光太郎が『智恵子抄』にうたった舞台で、妻・智恵子の手をとり歩いた場所です。

「愛の小径」を歩き、鞍石山で「ほんとの空」を眺める

鞍石山山頂の展望台と「ほんとの空」

洋画を学び芸術家でもあった高村智恵子と彫刻家、画家の高村光太郎は大正3年に結婚しますが、入籍は昭和8年。
父の死(大正7年)、実家の破産などもあり、すでに智恵子の精神分裂症が決定的になってから。
酒造業を営む実家・長沼家の破産など諸問題もあり、しばしば実家に滞在しています。

智恵子の杜公園には安達太良山(あだたらやま)を望む散策路も。
また「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と『智恵子抄』の「あどけない話」にある、本当の空とは、この公園からの「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に毎日出てゐる青い空」のこと。

智恵子抄の詩「樹下の二人」には「みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ」の歌が添えられ、詩の舞台がどこかという論争もありました。
研究が進み、今では鞍石山に落ち着いています。

智恵子の杜公園には、ひたりが歩いた道のうち生家から山頂の間が「愛の小径」(あいのこみち)として整備されています。
公園入口から石段を上った稲荷八幡神社の「熊野大神」(くまののおおみかみ)の石碑は、大正5年、智恵子の揮毫(きごう)。
鞍石山の頂上には、展望台(みはらしの広場)、光太郎の直筆を刻んだ「樹下の二人」詩碑が立ち、安達太良山、そしてかすかに阿武隈川を眺望。
ブロンズ像が配された彫刻の丘、遊具のあるふれあい広場などもあり、のんびりと過ごすことができます。

高村智恵子は「男にも自由があるように女にも自由がある。是れが男女を通じてその生活の根本である。どう考えてみてもこの根本は動かない」(高村智恵子『女の生きていく道』)と考え、「世の慣習を無視しても、たった一度しかない自分の生涯を自分で選びとろう」と決意し行動する新しい女性で、平塚らいてう(ひらつからいちょう)らの婦人運動の雑誌『青鞜』(明治44年創刊)の表紙絵も描いています。

昭和13年、粟粒性肺結核のため、南品川ゼームス坂病院で没(「ほんとの空が見たい」といったのは入院中のこと)。
昭和16年、高村光太郎は、妻・智恵子への鎮魂の想いをこめて、詩集『智恵子抄』を出版。
戦時下の暗い世情の中で人々の感動を呼び増刷を重ねたのです。

彫刻の丘
智恵子の杜公園
名称 智恵子の杜公園/ちえこのもりこうえん
所在地 福島県二本松市油井漆原町鞍石山地内
関連HP 二本松市観光連盟公式ホームページ
電車・バスで JR安達駅から徒歩20分
ドライブで 東北自動車道二本松ICから約4.3km
駐車場 100台/無料
問い合わせ 二本松市観光連盟 TEL:0243-55-5122/FAX:0243-22-8533
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

レモン哀歌の碑

東京都品川区南品川6丁目、ゼームス坂通りから少し入ったところに立つのがレモン哀歌の碑。正式名は高村智恵子記念詩碑で、高村光太郎の妻・高村智恵子が入院したゼームス坂病院があった場所で、昭和13年10月5日に肺結核で没。高村光太郎が智恵子の臨終

 

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